斑鳩の空



第一話 イミのない落書き


 長月ながつきはるかは、放課後の校舎裏で弓を手にして立っていた。
 周囲に人気はなく、グラウンドで練習している運動部員たちのかけ声やブラスバンド部の楽器の音などが、風に乗ってかすかに聞こえてくる。いつもと変わりない、平和な放課後のざわめきだ。
 ただひとつ平和でないものがあるとすれば、それは前方を睨み据える遥の眼差しだった。緊張を含んだ鋭い視線の先には、犬によく似た生き物がいる。ただ、犬にしては少しばかり頭が大きく、顔には目玉が三つ張り付いていたが。
 その犬に似たものはしばらく遥の様子を窺うようにうろうろと歩き回っていたが、やがて何かを見定めたのか、ぴたりと動きを止めた。同時に、遥が一歩踏み出し、弓を構える。
 矢はつがえられていない。しかし、遥が弓を引くのと同時に、そこに淡い光を纏った矢が現れた。
 遥はかすかに目を細めた。犬もどきが地面を蹴って跳躍した瞬間、鋭い音を立てて矢が放たれる。
 光の矢は、まるで吸い込まれるように正確に標的の頭に命中した。耳障りな鳴き声をあげて犬もどきが地面に転がる。
 しかし、犬もどきはすぐさま起き上がった。真っ二つに裂けた頭は瞬く間にそれぞれが再生し、ふたつの頭になる。もはや犬とは似ても似つかない姿だ。
「阿呆、遥! 中途半端に頭なんか割りやがって。一発で仕留められねえならまず動きを封じろ!」
 どこからともなく叱責の声が飛んでくる。遥は「わかってる……!」と言い返しながら、飛びかかってきた異形の獣をかわし、スカートのポケットから呪符を引っ張り出した。
「ちょこまか動くんじゃ……ない!」
 叩きつけた札の文字が鋭く発光し、獣の体を捕らえて一瞬だけ動きを止める。遥は立ち上がり、もう一度弓を構えた。
 そして、再び矢を射ようとした、その瞬間。
 鋭い光が宙を走り、獣の胴に突き刺さった。パン、と内側から破裂するように、呆気なく獣の姿が四散する。
 今のは、遥のものとよく似た霊力の矢だ。しかし、放ったのは遥ではない。
「こんなのに手こずってるのか。まだまだ俺のほうが強いみたいだな」
 冗談めかした口調で言いながら現れたのは、遥と同じように弓だけを手にした男子生徒だった。ただ、遥が制服姿であるのに対して、こちらは道着と袴という恰好だ。
 遥は一度不機嫌そうに口を引き結んでから、キッとその男子生徒を睨みつけた。
「勝手に手を出さないでくれる? そんなお節介をされなくても、もう少しで仕留められたんだから。つかさは何もしないで、ただ安全な場所にいればそれでいいの」
 つっけんどんな言い方に、司と呼ばれた少年のほうもややムッとした表情になる。
「なんだよ。練習が始まってもおまえが来てないみたいだったから、もしかしたらと思って探しに来てやったんだろ」
「余計なお世話よ。むしろ迷惑」
「迷惑はないだろ。だいたいおまえは……」
 司がさらに言い返そうとしたとき、「おい、そのへんにしとけよ」という別の声が割って入った。
「まったくおまえらは、顔合わすたびに飽きもせずキャンキャン喧嘩しやがって。話くらいもうちょっと普通にできねえのか」
 ふたりが振り向くと、ちょうど塀の上にいた黒猫がひょいと飛び降りたところだった。そのままのんびりとした足取りで歩み寄ってくる。
「ユラ」
 名前を呼ばれた黒猫はぱたりと尻尾を揺らすと、ふたりの足元にちょこんと座り、おもむろに説教をはじめた。
「まず遥。おまえは司にどうこう言う前にもっと修行しろ。まだおまえのほうが弱いのは事実なんだからな。あの程度に手間取ってるようじゃ、一人前の守護にはほど遠いぞ」
「そのくらいわかってるわよ」
「司、おまえは自分の立場をもっとしっかり自覚しろ。確かにおまえは強い。だが、その力はできるだけ使わないに越したことはねえんだ。そもそも、おまえの身に何かあってみろ。オレたちの苦労も全部水の泡じゃねえか」
「わかってる。……勝手なことして悪かった」
 遥も司もユラには返事をするものの、互いにそっぽを向いたままだ。
「あとは、おまえらふたりとも、そのめんどくせえ関係をどうにかしろ」
「努力する」
 返事は異口同音で大変よろしいが、態度は変わらずに相手を無視する姿勢を貫いている。
 ユラはやれやれとため息をついた。


 弓道場に入ると、司の言葉通り、とっくに練習が始まっていた。クラスメイトでもある美緒みおが遥に気づき、「遅かったね」と声をかけてくる。
「うん、ちょっとね」
 曖昧に返事をしながらちらりと練習の列に目をやると、すでに司はすました顔で並んでいた。いっそ憎たらしいほど涼しげな横顔だ。
 鏡見(かがみ)司。同じ高校、同じ学年、同じクラスで、部活も同じ弓道部。小学校も中学校も一緒で、さらに言うなら、家同士の交流があるために、学校に上がる前からの付き合いだ。普通なら幼馴染みのひと言で済むのだが、遥と司の場合は、少しばかり特殊な事情があった。
(わかってるわよ。自分が弱いってことくらい……!)
 この日、遥は苛立ち紛れにいつもより高い的中率を叩き出した。


「あら、お帰りなさい、遥ちゃん」
 部活を終えて帰宅すると、ちょうどマキさんが店の前の片付けをしているところだった。遥の家は呉服店を営んでいて、古株の従業員である彼女は、遥のことも子供の頃から見知っている。牧野まきの和代かずよ、通称マキさんだ。
「今日もユラちゃんと一緒なのね。いつもお迎えに行って、ユラちゃんは本当に遥ちゃんのことが好きなのねぇ」
 遥の足元にいた黒猫に目を留め、マキさんはニコニコと笑う。ユラはちらりとマキさんを見上げ、それからフンとでもいうように横を向いて、さっさとどこかへ歩き去ってしまった。先に家に戻っているつもりなのだろう。
「何か手伝おうか? そろそろお店閉める時間だよね」 「ああ、いいのいいの。こっちよりも、千紗子ちさこさんのお手伝いをしてあげて。晩ご飯の支度もこれからでしょう?」
「あ、うん」
 手を振るマキさんに見送られ、店の反対側にある家の玄関に向かう。ただいま、と言いながら玄関を開けると、ちょうどユラが廊下を横切ろうとしていたところだった。
「さっきマキさんから逃げたでしょ、ユラ」
「あれは逃げたんじゃねえ。戦略的撤退だ。おい、遥、オレを猫ちゃん扱いするのはやめるよう、マキノに言っとけ」
「仕方ないでしょ、猫の恰好してるんだから。嫌なら犬にでもなったら?」
「犬は気に入らん」
「ワガママ」
「我が儘とは何だ、こら遥」
 ぶつぶつと文句を垂れているユラは、今は猫の姿をしていない。黒い毛並みは相変わらずだが、猫よりもふたまわりほど小さく、頭にはピンととがった耳と小さなツノ、背中にはコウモリに似た羽が生えている。首の周りの毛だけがふわふわとしていかにも気持ちよさそうだが、迂闊にもふもふしたりすれば容赦なく引っかかれること請け合いだ。
 そう、ユラはただの猫でも、言葉を喋るだけの猫でもない。遥の家――長月家に仕える使い魔なのだ。
 日本のほぼ中心に位置するこの斑鳩いかるが地方には、ふたつの古い呪術師の家系がある。長月家と鏡見家。このふたつの血脈に連なる術者たちが、代々この地をさまざまな妖怪や悪鬼たちから守ってきたのだ。長月家の呉服屋は、いわば表の家業。遥も普通の高校生として生活する傍ら、毎日修行や妖怪退治に追われている。学校で倒した犬もどきも、もちろん妖怪の一種だ。
(まあ、結局、倒したのは司だったんだけど……)
 それを考えると気分がもやもやする。
 着替えて夕飯の支度を始めていると、じきに母の千紗子も店から戻ってきた。長月呉服店は、実質的にはほぼ千紗子が切り盛りしている。しっかり者の奥さん、というのが店の従業員たちからの評判だ。実際、なかなか肝の据わった人で、結婚前に長月家の“本業”を打ち明けられたときもほとんど動じなかったという。もともと妖怪やそういった異形のモノたちの気配を感じ取れる体質ではあったのだが、その後、出産を機にはっきりと見えるようになったらしい。
「もともと、見えるときでもぼんやりした影みたいなものが見えてただけだったからね。ゆかりを産んでから、ああ、お父さんがいつも見てるのはこういう世界だったんだって納得したわよ」
 その話を聞いたのは、確か小学生の頃だ。「じゃあ、お姉ちゃんのおかげだ!」と興奮して言ったのは遥で、姉の紫は「そうなんだぁ」とのんびり笑っていたが、どちらかというと、母の話よりも目の前のシュークリームに集中しているようだった。遥より三歳年上の紫は、今は隣の県で一人暮らしをしながら大学に通っている。
 そして、一家の大黒柱たる父・長月彰宏あきひろは……
「よし、遥、今週の戦績発表だ! 父さんは今週、三匹の凶悪な妖怪を退治しました!」
 今まさに、夕飯のコロッケが載った皿を前にして、遥に向かって自信満々に指を三本立ててみせた。
「ほらほら、次は遥の番だぞ」
「……二匹だけど」
「うんうん、そうか、頑張ってるな! まあ、お父さんに敵わないのは仕方ない。撃退数がお父さんより少なかったからといって落ち込むことはないぞ!」
「でも、その三匹の凶悪な妖怪のうちの一匹って、一昨日出た太ったネズミの妖怪よね」
「う、ま、まあ……」
「あれは小物だったわね。性悪だったけど」さらりと千紗子が口を挟み、
「すばっしこいことを除けば、力は大して強くなかったな」ユラも何気なく追い打ちをかける。
「……うん、まあ、つまりそういうことだ。今日のコロッケはうまいな」
 このように、なぜか常に娘と張り合いたがっている。
「ところで、遥。司くんとはうまくやってるのか。最近はちっともうちに遊びに来ないじゃないか」
「最近って……一緒に遊んでたのなんて、小さい頃だけでしょ。べつに仲良くとかしなくても、学校に入り込んできた妖怪の退治はできるし」
「しかしなぁ、司くんは“御印の子”だし、もしものことがあったら……」
「もう、大丈夫だってば。司の様子にはちゃんと注意してるから」
 苛々して、思わず彰宏の言葉を遮ってしまう。
 司は特殊な体質の持ち主だ。
 ことの発端は、はるか昔にまでさかのぼる。あるとき、この斑鳩の地に恐ろしい力を持った鬼神が出現し、長月家と鏡見家が協力してこれを封じたのだが、その際、当時の鏡見家当主であった鏡見雅春まさはるという人物が人柱として犠牲になったのだ。それ以降、封印の器となった雅春の血を通じて、鏡見家には何代かに一度、鬼神の申し子とでもいうべき子供が生まれるようになった。“御印の子”と呼ばれるその子供たちは総じて強い霊力を持つが、それは雅春の血を介して漏れ出した鬼神の力の一部であり、彼らはその力を欲する妖怪たちに命を狙われることになる。司は、その“御印の子”としての定めを背負って生まれたのだった。
 妖怪が司を殺して鬼神の力を得ればそれだけでも大変なことになるし、封印そのものにも何らかの影響を及ぼさないとも言い切れない。そのため、遥たちは力の匂いに惹かれて集まってくる妖怪たちを退け、司を守らなければならないのだ。
「大変な仕事だが、何より一番大変なのは司くん本人だからなぁ……」
 彰宏はひとりでうんうんとうなずいているが、そんなことは遥にだってわかっている。けれど、わかっているだけではどうにもならないこともあるのだ。


 司とうまく話せなくなったのはいつからだろう。夕飯を終えて部屋に戻った遥は、机の上に明日の予習のノートを広げながらぼんやりと考えた。
 昔はもっと、普通に仲良くできていた。保育園とか、小学校の低学年とか、それくらいの頃だ。家同士で頻繁に行き来があったから、ほとんどきょうだい同然でよく一緒に遊んだ。
(でも……普通って何だろう)
 妖怪に狙われる司と、それを守る自分。そういう役目があることは、その頃にはもうわかっていた。きちんと理解できていたわけではないが、「遥は司を守ってあげるんだよ」と周囲の大人たちから言われ、そういうものなんだと思っていた。外で遊んでいるときにヘンなものが近づいてきたら、司と一緒に追い払った。それだけのことでも、遥は「あたしが司を守った!」と嬉しくなってはしゃいでいた。
 そして、あれはいつのことだったろうか。小学生の頃だ。今にも雪が降り出しそうな、薄暗く曇った冬の日だったことを、今でも鮮明に覚えている。
 その日、遥と司は、学校帰りに妖怪に襲われた。まっすぐ帰らず、道草をしていたせいで妙なものに目をつけられてしまったのだ。たまたま大人たちの監視の目をくぐり抜けたモノが、そのあたりに潜んでいたのだった。子供ではとても太刀打ちできないような相手で、司はすぐに遥を引っ張って逃げようとした。けれど、遥は足が竦んで動けなかった。その遥を庇って、司は腕に怪我をした。血が流れた。ひどい怪我だった。親戚のひとりが偶然異変に気づいて駆けつけてくれなかったら、きっと大変なことになっていただろう。
 もちろん、遥はこのことで両親からこっぴどく怒られたが、それ以上にショックだったのは、自分が司に守られてしまったということだった。怖かった。それまで自分が「退治した」なんて自慢げに言っていたのは、本当に無害な小物でしかなかったのだと思い知った。司を脅かしているのは、本当は、ああいう恐ろしいモノたちなのだ。そして、そんな恐ろしいモノたちから司を守る力が、自分にはない。それどころか、自分のせいで彼を危険に晒した。
 焦りを感じるようになったのは、それからだ。
 早く司より強くならないといけない。司に助けられるようじゃ意味がない。戦いの場に司をいさせてはいけない――……。
 気持ちばかりが逸って、いつの間にか、司自身に対しても以前のように屈託なく接することができなくなっていった。
「……やっぱり、普通とは言わないよね、こんなのは」
 よくある、小さい頃は仲の良かった幼馴染みが成長するにしたがって疎遠になる、というのとは、根本的なところでまったく違うのだ。
 妖怪に狙われる司と、それを守るべき自分。
「うまくやれなんて、無理に決まってるじゃない」
 守るべき立場にいる自分のほうが弱いとくれば尚更だ。
 まったく予習に手をつける気になれず、遥は諦めて立ち上がった。仕方ない。もし終わらなかったら、明日は美緒にノートを見せてもらおう。
 机の引き出しを開けて、そこから一本の笛を取り出す。飾り気のない、素朴な風合いの横笛だ。遥はその笛を持ってベランダに出ると、身軽な動作でひょいと屋根の上に登った。そのまま瓦の上を歩いて一番高いところまで行き、腰を下ろして笛を唇にあてる。
 長月家の子供たちはみな、小さいうちから自分の笛を与えられる。そして、代々伝わるという古い曲を教えられるのだ。ゆったりとして、基本的には同じメロディを繰り返していくだけの、それほど難しくはない曲だ。タイトルはなく、由来もよくわからないのだと彰宏が言っていた。ただ、昔から長月家ではこの曲を伝えていくのが決まり事になっているのだそうだ。
 昔から、遥は悩み事があると屋根に登ってこの曲を吹いた。夜、星明かりの下で無心に笛を吹いていると、不思議と気持ちが落ち着いてくるのだった。
 吹き始めて少しすると、不意に後ろから声をかけられた。
「どうもヘタクソな笛が聞こえると思ったら、やっぱり遥か。もうちょっと近所迷惑を考えろ」
 振り返ると、ユラがこちらにやってくるところだった。羽もあるのに、ちょこちょこと屋根の上を歩いてくる。
「なによ、うるさいわね。そんなに大きな音で吹いてないでしょ」
「問題は音の大きさじゃねえんだよ。おまえといい彰宏といい、長月家史上でもトップクラスのひどさだぞ」
「自分以外に証人がいないからって、またそういう適当なこと言って。いくら私だって、そこまでヘタじゃないわよ」
「まあ、自分でそう思うのは自由だけどな。おまえ、音楽の成績悪いだろ。彰宏は悪かった」
 遥はユラの失礼発言を無視して、また笛を吹き始めた。ゆったりと流れる、穏やかな旋律。夜空はよく晴れていて、上弦を過ぎた月が明るく輝いている。
 しばらくして遥が笛を下ろし、「ねえ、ユラ……」と話しかけようとすると、小さな使い魔はいつの間にか丸くなって眠っていた。
「まったくもう……文句言うだけ言っておいて。来たなら話し相手にくらいなりなさいよ」
 嫌がらせ半分でつついてみるが、ユラはうるさそうに尻尾を動かしただけで、目を覚ます気配はない。実に呑気な寝顔だ。遥は小さく肩をすくめると、そっとユラを抱き上げて部屋に戻った。



 それから数日間は、特に何事もなく過ぎた。学校では嫌でも司と顔を合わせることになるが、特に用がない限り遥は声をかけないし、向こうから話しかけてくることもない。それでお互いに不便はないのだから、何の問題もない。
 ある日、遥が廊下を歩いていると、すぐ横の窓に黒猫がトンと飛び乗った。さりげなくそちらに近づき、耳を寄せる。手短に伝えられた言葉に遥が小さくうなずくと、黒猫はすぐに身を翻して姿を消した。
「あれっ、遥、今そこに猫がいなかった?」
「うん、野良猫みたい。近づいたら逃げちゃったけど」
 後ろからやってきた美緒に笑って答えながら、天井にちらりと鋭い視線を向ける。どうやら、今夜は妖怪退治になりそうだった。


 その晩、学校の屋上に遥とユラの姿があった。空には大きな満月がかかっているが、その澄んだ月明かりを不気味な影が遮っている。
 月を背に蠢いているのは、巨大な骸骨の上半身だった。腰から下の部分は空中にはみ出して、校舎にしがみつくようにして屋上に身を乗り出している。がしゃどくろと呼ばれるたぐいの妖怪だ。
 青白い骨の手がゆっくりと振り上げられ、遥とユラ目がけて振り下ろされる。重い衝撃が屋上を揺るがしたが、遥たちは身軽に飛び退いてその攻撃をかわした。獲物を仕留め損なったがしゃどくろが顎の骨を細かく振るわせ、唸り声に似た音を立てる。
「見た目はご立派だが、デカイだけのただのハリボテだな。さっさと始末するぞ、遥」
「あたしにとっては十分大物だけど」
 ぼやきながらも、遥は足元に霊力の矢を打ち込んだ。がしゃどくろの攻撃を除けながら移動し、合計四カ所。最後に真ん中に戻ろうとしたとき、大きな獣の影が遥の脇をすり抜けて跳躍した。
 力強い獣の四肢と背中に生えた翼。月明かりに輝く漆黒の毛並み。本来の力を解放した、ユラのもうひとつの姿だ。そのユラが牙を剥き、がしゃどくろ目がけて飛びかかる。
 今まさに遥をなぎ払おうとした巨大な手から指が一本噛みちぎられ、がしゃどくろがおぞましい叫び声をまき散らした。これが妖怪の声でなければ、近所中の人々が何事かと飛び起きただろう。
「ぼさっとしてんじゃねえぞ、あと一本だろうが!」
 噛み切った指の骨を吐き捨てたユラが怒鳴る。遥はハッと我に返ると、今度は真上に向けて弓を引き絞った。  放たれた矢が虚空に吸い込まれると同時に、屋上いっぱいに輝く淡い緑の呪術陣が出現した。陽のあるうちにユラとふたりで仕込んでおいたものだ。
「遥、いけるな!?」
「いつでも!」
 ユラが空を蹴り、高くがしゃどくろの頭の位置まで跳ね上がった。額のちょうど中央を爪で抉り、そのまましなやかに宙返りして屋上に降り立つ。
「外すなよ」
「わかってる」
 弓を引き、的を見定める。深く静かな呼吸。足元の陣がするどい光を放つ。そして。
 放たれた矢は、巨大な髑髏の額の傷を正確に射貫いた。
 先程の比ではないすさまじい叫び声がほとばしる。貫かれた箇所から亀裂が広がり、がしゃどくろはぼろぼろと崩れはじめた。もだえ、叫びながら、無数の破片となって月明かりに溶けていく。
「がしゃどくろってのは、もともと恨みの念の塊だ。浄化の陣がよく効いたな」
 そう言ったのは、いつの間にか遥の隣に来ていたユラだった。すでに、いつものちんちくりんの姿のほうに戻っている。
「恨みの塊、か……。でもなんか、きれいだね、花びらが散ってくみたいで」
「どうした、遥、いつになくセンチメンタルだな。柄にもないことはやめとけ」
「うるさい」
 それからふたりは、怨念の最後のひとかけらが風にさらわれてしまうまで、ただ黙って見守っていた。


「ふうん……」
 ふたりから少し離れた場所で、小さくつぶやく声があった。
 屋上の端にある給水塔。その上に足を組んで座っている、ほっそりとした人影。遥と同じくらいの年頃に見える少女だ。
「あんな子がいるんだ」
 どこか楽しそうにつぶやく。
 やがて少女は音もなく立ち上がった。ふわりと揺れる淡い色の髪。形のいい、薄い唇。最後にちらりと遥たちのほうを振り返ったその横顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。





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