斑鳩の空



第二話 カイノキの坂道


「いいか、この斑鳩って土地は、まあだいたい、日本の真ん中だ。したがって、日本の妖怪どもは、斑鳩を挟んで東西に分割されることになる」
 金色の陽射しがまぶしい、朝の並木道。学校に向かう遥の肩の上で、使い魔のユラが蕩々と歴史講義を行っていた。
「これを大雑把に東軍、西軍と呼ぶが、当然、どっちの首領もあわよくば相手を滅ぼして日本全土の妖怪を支配下に置きたいと考えてる。だが、もしこの両軍が覇権を争って大規模な闘争なんぞ起こしたら、人間どももただじゃ済まないからな。それを防ぐために、古くから続く呪術師の一族である長月と鏡見の家が代々この地方に結界を張って、東西の激突を防いできたってわけだ」
「うん」
「もちろん、両軍ともに、内部にはその中心勢力に従うことを良しとしない強力な妖怪や悪鬼、小規模な派閥勢力なんかが蠢いてる。人間のほうにも各地にいろいろな呪術師や霊力者の一族があって、東軍、西軍、その他の妖怪どもが力を蓄えすぎないよう様々な形で活躍してる。とまあ、これが日本全体の大まかな状況だ」
「うん」
「で、あと厄介なのが、おまえらのご先祖が封印した“斑鳩の鬼神”だな。こいつの力は東軍や西軍も狙ってるからして、この土地の結界は、東西の分断だけじゃなく、封印の守りをも兼ねてるってことになるわけだ」
「ん……」
 遥の相槌は上の空だ。まったく身が入っていないのが丸わかりである。
「おいコラ、聞いてんのか遥。おまえのご先祖から連綿と続く重要な話だろうがっ!」
「聞いているし、もうとっくに覚えてるってば」
 何と言っても、小さな頃から何度も繰り返し聞かされている話なのだ。耳にタコというか、長月家に生まれ育った者にとっては、あえて言うなら「実は地球って丸いんだよ」というのと同じくらいのレベルの基礎知識なのである。
「同じ話ばっかり繰り返すのは年寄りの証拠だよ。ユラもそろそろ老人の域に入ってきたんじゃない?」
「誰が年寄りだ。見ろ、この毛並みのツヤを。おまえがヨボヨボのババアになってもオレは現役バリバリで大活躍してるぜ」
「はいはい、そうだといいね」
「おまえ絶対、オレがいかに格の高い使い魔かわかってねえだろ……」
 むむう、と唸ったユラは、それから前方にちらりと目を向けた。
「……まあ、それはいいとして、何なんだおまえら、この微妙な距離感は」
 カイノキの街路樹が並ぶこの道は、長くゆるやかな坂道になっている。その少し先に、ひとりで歩いている司の後ろ姿があった。
「一緒に行くなら普通に一緒に行けばいいだろうが」
「べつに一緒に行くっていうわけじゃないし……。今日はたまたまタイミングが同じになっただけで」
 言い訳めいた遥の言葉に、ユラが呆れて首を振る。
「おまえらは一緒に行ったり帰ったりするのが当たり前なんだよ。護衛の意味があるんだからな」
「わかってるわよ。でも、べつにわざわざ並んで歩かなくったって、同じくらいの時間に同じ道を歩いてれば、危険な妖怪がいたらすぐにわかるし」
「昔は仲良く並んで歩いてたじゃねえか」
「昔は関係ないでしょ」
「強情」
「うるさい」
 遥はフンとそっぽを向いた。遥たちの通っていた小学校、中学校、そして今の高校はいずれも、遥たちの家がある地区から同じ方向にあるので、このカイノキの坂道は、小学生の頃からずっと通学路として歩いていた。ユラの言う通り司と並んで歩いていた頃もあったが、それは遥がまだ無知で無邪気でいられた頃の話だ。
(なんでこう、みんな、そんな頃のことを引き合いに出すんだろう)
 遥は小さくため息をついた。


 学校が近くなって人通りが増えてくると、ユラの姿はいつの間にか消えている。遥たちが学校にいる間は、ユラは大抵、動物の姿などで周辺を見回っている。斑鳩地方が結界で守られているとは言っても、紛れ込んでくる妖怪がいないわけではない。昔からこの地方に住み着いている妖怪も、もちろんいる。そういったモノたちが悪さをしたり、司を狙ってくるようであれば退治するのだ。逆に言えば、地方一帯を覆う結界がなければ、遥たちの仕事はこんなものでは済まなくなるのである。
 教室に入ると、遥と仲のいい数人の女子が何やら集まって話をしていた。
「おはよう。どうかしたの?」
「あ、おはよう、遥。それがさ、屋上のフェンスが夜のうちに壊されてたんだって。何カ所か、こう、ぐしゃって変な形に潰れてるって、先生たちが騒いでた」
「え……あ、屋上?」
 思わずギクリとする。しまった。昨晩、がしゃどくろと戦ったときだろうか。暗かったし、そこまでよく見ていなかったが、たぶんそうだ。
「あそこのフェンス、けっこう頑丈なのにね。不良のケンカとかかなぁ。金属バットで殴ったとか?」
 美緒の言葉に、他の少女たちも「窓ガラスとか割られるのも困るけどねー、フェンスもねー」「校内でそういうことするのやめてほしいよね」とうなずきあっている。まさか巨大な骸骨の妖怪の仕業とも言えず、遥も冷や汗をかきつつ曖昧にうなずいた。
(この場合、やっぱり弁償とかになるのかな……あとで一度、様子を見に行ってみよう……)
 ユラにも伝えておかないと、と思っていると、早くも話題は次へシフトしていた。
「あとさ、今日うちのクラス、転入生が来るらしいよ」
「ええっ、何それ! そっちのほうがよっぽどビッグニュースじゃん!」
「あ……そ、そうなんだ……」
「どんな子? 男子? 女子?」
「あ、あたしその子見たかも。職員室にいた。女の子だったよ、髪の長いキレイな子」
 そうなんだー、早く見たいねー、と、美緒たちはすっかり屋上のフェンスの話など忘れ去れてしまったように盛り上がっている。
 そのうちに予鈴が鳴り、遥たちも慌てて席についた。「美人の転入生」の噂はすでにクラスの大半が知っているらしく、教室の中はいつになくそわそわとした雰囲気だ。
(こんなに期待されてるって知ったら、その子もプレッシャーだろうな……)
 よほど自分の容姿に自信がない限り、美人などという前評判はできれば勘弁してほしいものだ。噂が先行しちゃうと大変だな、と遥は半分他人事のようにぼんやりと考えていたが、結論から言うと、そんな心配はまったくの杞憂だった。
 担任の後ろについて入って来たその少女が黒板の前に立つと、教室のざわめきがぴたりとやんだ。遥もまた、ついていた頬杖を外してぽかんとその少女を見つめた。
(うわ……すごい。ホントに美人だ)
 淡い色のやわらかそうな髪。細く長い手足と、透き通るような白い肌。クラス中の注目を一身にあびていても、まったく気にする様子がない。見られることに慣れているのだろう。担任に紹介され、にっこりと笑う。驚くほど整った目鼻立ちは少し冷たい印象もあったが、笑うと雰囲気が和らいで、周囲の空気がパッと華やかになった。
「はじめまして、不知火しらぬい麻夕まゆです。これからよろしくお願いします」


 不知火麻夕は少しも気取ったところのない、明るく気さくな性格の持ち主で、あっという間にクラスに馴染んだ。休み時間ともなれば不知火の机の周囲に人の輪ができ、楽しげな笑い声が上がっていたが、転入初日には遥はその輪にはほとんど入っていなかったので、次の日の朝、昇降口で「おはよう、遥ちゃん」と声をかけられたときには驚いた。
「あ……おはよう、不知火さん」
 振り向いて挨拶を返した遥に、不知火は少しホッとした表情を見せた。
「ああ、よかった。遥ちゃんだと思って声かけたけど、ほんとはちょっと自信なくて」
「そうなの? ……ていうか、私こそ、もう覚えてくれてると思ってなかったからびっくりした。昨日、一回自己紹介しただけなのにすごいね」
「うーん、でもまだ半分くらいだよ。ちゃんと覚えたのは。遥ちゃんのことはちょっと気になってたから、今日話せて嬉しい」
 その言葉通り、不知火は嬉しそうににっこりと笑う。改めて近くで見ると、本当にきれいな子だ。びっくりするほど睫毛が長い。
「いいクラスに入れてよかったなぁ。みんな親切だし。ねえ、遥ちゃんって部活は何やってるの? 私、前の学校では部活とかやってなかったから、こっちではどうしようか迷ってて」
「私は弓道部だけど……」
「あれっ、じゃあ司くんと一緒なんだ。いいよね、弓道。なんか日本って感じでカッコいい。遥ちゃん、袴とか似合いそう」
「着てみたらきっと不知火さんのほうが似合うよ」
「そうかなー。あ、私のこと、麻夕でいいよ」
 どうして司が弓道部であることを知っているのだろう、と一瞬思ったが、そういえば、不知火の席は司の隣だ。昨日、彼女を取り囲んでいた人垣の中に司も引っ張り込まれていたようだから、そのときにも部活の話になったのだろう。
「今度見学に行ってみようかな。遥ちゃんがいるなら心強いし、司くんの袴姿も見てみたいし」
「あ、うん」
 教室に着くと、すでに司の姿もあった。「おはよう、司くん」と不知火が無邪気に声をかけるのを聞きながら、遥はさっさと自分の席に向かった。机に鞄を置いて、小さくため息をつく。今日は美緒たちもまだ来ていないし、なんだか手持ちぶさただ。
(予鈴が鳴るまで、少し校内の見回りでもしておこうかな……)
 しかし、教室を一歩出るか出ないかのうちに、突然横から腕をつかまれた。
「お、遥、ちょうどよかった! 今おまえ呼ぼうと思ってたんだよ」
 廊下に立っていたのは、いかにもガラの悪そうな男子生徒だった。茶髪にピアス、着崩した制服の下には派手な赤いTシャツを着ている。不良ですと宣伝して歩いているような恰好だ。
「なんだ、裕哉ゆうやか。ちゃんと朝から来てるなんて珍しいじゃない」
「バカヤロウ。俺だって真面目に早く来る日くらいあるんだよ」
「どうせまた原付で来たんでしょ。言っとくけど、校則違反だからね」
「知ってる知ってる。そうかたいこと言うなって。それよりさ、おまえらのクラス、転入生来たんだろ? 超美人の。どの子? もう来てる?」
「野次馬するために早く来たわけね……」
 遥は呆れて額を押さえたが、裕哉が「教えろ教えろ」とうるさいので、戸口から身体をずらして教室の中を示した。
「あの窓際の席の、今、司と話してる子」
「え、あの色白で茶色っぽい髪の? おいちょっとマジで美人じゃん。期待以上なんだけど。名前なんていうの? 俺にも紹介してよ」
「不知火さん。自分で話しかければ?」
「なんだよ、冷てえな、遥。おいこら司、おまえだけ美少女と仲良く話しやがって、俺と代われッ」
「ちょっともう、あんまり騒がないでよ。もうすぐホームルーム始まるから、とりあえず自分の教室帰りなって。せっかく遅刻しないで来たんだから」
「うちのクラス、可愛い子なんか全然いねえの。超ハズレ。せめてひとときだけでも、俺の心に潤いをっ!」
「うるさいってば」
 美人最高と叫ぶ裕哉をなんとか帰らせると、ちょうどやってきたらしい美緒たちが驚いたように裕哉の後ろ姿と遥を見比べていた。
「遥、今の先輩と知り合いなの?」
 たぶん、裕哉があからさまに不良っぽかったのが意外だったのだろう。遥はどちらかといえば、目立たない真面目な生徒の部類に入る。
 遥は苦笑しながら軽く手を振った。
「司の親戚で、私も小さい頃からよく遊んでもらってたの。見かけほど怖くないよ。不知火さんの噂聞いて、見に来たみたい」
 御影みかげ裕哉。遥たちよりひとつ年上の三年生だ。御影家はかつて鏡見家から枝分かれした同じ術者の一族で、むろん、妖怪のことや、司の体質のことも知っている。血縁関係としてはいろいろとややこしいことになっているので、裕哉などは司との関係を説明するときは適当に「マタイトコ」で済ませているらしい。
「鏡見くんの親戚かぁ……。それもちょっと意外だけど、そっか、遥と鏡見くんって幼馴染みだもんね」
 美緒がうなずいて、「不知火さんといえば……」とちらりと教室をのぞき込んだ。
「遥、気づいている? 不知火さん、どうも鏡見くんに気があるみたいだよ。昨日も、何かっていうと鏡見くんに話しかけてるみたいだったし」
「そう? 席が隣だし、そんなもんでしょ」
 遥は笑ってかわしたが、美緒たちは「そうかなぁ」と納得しない。
「それに、もし仮にそうだとしても、私にはべつに関係ないことだし。不知火さんと司ならけっこうお似合いだよ」
 言ってしまってから、自分の言葉に胸がざわつくのを感じたが、遥はそれに気づかないフリをした。


          *

「ねえ、次の授業って生物室だよね。司くん、一緒に行っていい?」
 不知火の無邪気な声が聞こえて、遥は一瞬、机からノートを取り出しかけていた手を止めた。
「不知火さん、まだ教室の場所覚えてないの?」
「麻夕でいいって言ってるのに。それに私、生物室は今日が初めてだよ。ね、行こう」
「まあ、いいけど……」
 ちらりと目を向けると、立ち上がった司に不知火が何か楽しそうに話しかけながら歩き出したところだった。最近、よく見る光景だ。
「……なかなか積極的だね、不知火さんは」
「うわっ、びっくりした。いつから背後にいたの、美緒」
「今さっきだけど。それより遥、やっぱり不知火さんは強敵だよ。鏡見くんって、意外と押しに弱いタイプかも」
「だから、そんなんじゃないってば」
 呆れ混じりに言いながらも、気がつくと目がふたりを追ってしまっているのも事実だ。
(でも、それはべつに……司の様子をちゃんと見ておくのも、私の役目のうちなんだし)
 気になるのは、そういうことだ。不知火が一緒にいるかどうかというのは関係ない。
「それより、私たちも行こう。あんまりゆっくりしてると授業始まっちゃう」
 教科書をそろえて立ち上がった遥は、廊下に出たところでふと足を止めた。何かの気配がする。顔を上げると、天井の端に黒い小さな染みのようなものがあった。
「どうしたの、遥」
「あ、ううん。天井のところに虫がいただけ」
 美緒たちと歩き出しながらもう一度ちらりと振り返ると、黒い染みはもう消えていた。


 遥が次にその染みを見たのは、翌日の体育の時間だった。
 その日は朝から雨で、男子と女子で体育館を半分ずつ使うことになった。「女子はバレーボールだって。どうせコートひとつしか使えないし、適当にサボろうっと」と、美緒は呑気なものだ。
 染みの存在には、体育館に入った瞬間に気づいた。天井の真ん中あたりに、大きな黒っぽい染みがいくつか浮き出している。
「ねえ、美緒。あれ、雨漏りかな」
「え、どこ? この体育館、そんなに古かったっけ」
 遥が示した場所を見ても、美緒はきょとんと首を傾げている。示されて見落とすような小さなものではない。彼女の目にはあの染みが映っていないのだ。
「ああ、ごめん、見間違いだったみたい」
 やはり、昨日見たものと同じだ。うっすらとではあるが、あまりよくない妖怪の気配がする。
 授業中、遥はあまり集中できなかった。天井の染みがじわじわと広がっていることに気づいてしまったのだ。広がるだけでなく、色も濃くなってきているような気がする。今にも真っ黒な水滴がしたたり落ちてきそうだ。
「どうしたの、遥ちゃん。顔色よくないみたいだけど、大丈夫?」
 そう言って隣に腰を下ろしたのは不知火だった。じっと染みに見入っていた遥は慌てて首を振った。
「ううん、ちょっとボーッとしてただけ」
「そう? だったらいいんだけど、ひとりで座り込んでたからどうしたのかなと思って。あ、ねえ見て、男子のほう、司くん試合やってるよ」
 たちまち不知火の声が弾む。男子はバスケだ。不知火の言葉通り、コートの中に司の姿があった。
 運動神経のいい司は、バスケ部の生徒にも負けない活躍を見せている。実際、一年のはじめの頃にはあちこちの運動部から誘いがかかって、弓道部に入部を決めたときはずいぶんがっかりされたらしい。
「司くんってかっこいいよね。遥ちゃん、幼馴染みなんでしょ? いいなぁ、司くんの小さい頃とかもたくさん知ってて」
 幼馴染みだという話は遥からはしていないので、他のクラスメイトか、司本人から聞いたのだろう。
 司の姿を目で追う不知火の表情はきらきらしていて、少しも嫌味なところはない。遥が司の幼馴染みだと知って牽制しにきたのではなく、単純に遥のことを司の話ができる相手だと思っているのだろう。素直で可愛くて、本当に、遥とは正反対な女の子だ。
 遥は小さくため息をついて、またちらりと天井を見上げた。授業が終わる頃には、黒い染みはゾッとするほど大きくなっていた。


 昼休み、弁当を食べ終えると、遥は美緒たちの雑談の輪から適当に抜け出した。弓を取りにまず部室へ向かったのだが、そこで思いがけず司と出くわした。
「……来ると思った」
「何が? 司こそ何してるのよ、昼休みにこんなところで。不知火さんと一緒じゃないなんて珍しいわね」
 そうしようと思ったわけでもないのに、声がつっけんどんになる。
「そんなにいつも一緒にいるわけじゃないし、そんなことは今関係ないだろ。体育館のあれ、始末しに行くのか」
 授業中はそんな素振りは見せていなかったが、やはり司もあの異常な染みには気づいていたらしい。
「そうよ。だから司は来ないでね。やることもないんだから、さっさと教室に帰れば?」
「なんだよ、その言い方。タチの悪そうな気配だったし、人が心配して……」
「心配の方向性が間違ってるんじゃない? 司は自分の心配だけしていればいいの。タチが悪そうだと思ったのなら、なおさら首を突っ込まないで」
「おい、遥……!」
 司の声を無視して、遥はさっさと体育館に足を向けた。
 誰もいない体育館は静かだ。外の雨の音がいやに大きく聞こえる。
「……昼休みのうちに片付くと思う?」
「おまえの腕次第ってとこだな」
 答える声は遥の足元から上がった。いつの間にか、小さな翼を持つ使い魔がちょこんと立っている。
「昨日から妙な気配が校内をうろついてると思ったら、こいつだったか。今日の湿気につられて出てきやがったな」
 今や天井のほんどがまだらに広がる黒い染みに覆われている。その中で一番大きく濃い染みが波打つように震え、やがて、いびつな黒い影がずるりと姿を現した。
「い、る……いる……」
 ぶつぶつと濁った泡を吐くような、かすかな声が聞こえてくる。
「いる……ちかくに……御印の子……どこにいる……」
 人とも獣ともつかない奇妙な姿をしたそれは、遥たちの存在に気づいているのかいないのか、上半身を天井からぶら下げて、「御印の子」「どこだ」とひとりごとのようにつぶやいている。
「……司を探してる」
「あいつは精螻蛄しょうけらだな。もともとは天窓から家の中を覗くだけの害のない妖怪だが、司の持つ鬼神の妖気に刺激されて本来の性質を失ってるんだろう」
「体育のときにどんどん染みが広がってたのは、きっと司がここにいたせいね」
 言いながら、遥は弓を構えた。その手に、淡く輝く霊力の矢が現れる。精螻蛄の動きは鈍い。天井は高いが、当てるのは難しくないはずだ。
 だが、矢を放った瞬間には、精螻蛄の姿はそこから消えていた。残された染みだけが矢の力で蒸発する。
「……御印の子……いる……首……もってかえる……」
 ハッと振り向くと、別の染みの中から黒い影がぶら下がっていた。どうやら、染みをつたって自在に移動することができるらしい。
「……なるほど、厄介ね」
 立て続けに放った矢は、またしてもことごとく避けられた。しかも、せっかく散らした黒い染みも、少し経てばまた同じように滲み出してきてしまう。
「呪符で動きを止めるってわけにもいかないし……」
 つぶやいて腕を降ろしたとき、上から黒い滴がしたたり落ちてきた。その滴が腕に触れた途端、痺れるような痛みが走る。
「……っ、なにこれ」
 見上げれば、まるで雨漏りのように、天井中に広がる染みからぽたぽたと黒い滴が落ち始めていた。
「じゃま……するな……御印の子……どこ……」
「つまり、これがあいつの攻撃ってわけね」
 痺れはすぐに取れたが、立て続けに滴に触れれば、著しく動きを制限されてしまう。どうやら今回、遥には、落ちてくる滴を避けながら精螻蛄本体を狙うという、困難極まりない作業が要求されているようだった。
「ねえユラ、これ、私の腕次第とかいう次元の話じゃないと思うんだけど」
「首を持ち帰るとか言ってたな。あれはたぶん、東軍だか西軍だかから力を増強されて送り込まれてきやがったんだ。思ったより面倒な奴だったな」
「じゃあ、どうする? 逃げ場をなくせばいいんだろうけど、染みを消していってもとても間に合わないし……」
「ひとつずつ消してればな。一度に全部蒸発させてやればいい」
 言うと同時に小さな使い魔の姿が揺らいで、翼を持つ大きな獣の姿が現れる。
「さすがのオレでも何度も連続では無理だぞ。本体のいる場所だけが残る。しくじるなよ」
「やってみる」
 もうちょっと頼もしい返事をしろよ、と文句を言いながらも、ユラは遠吠えをする狼のようにぐっと身を反らした。深く息を吸い込む。そして。
 体育館全体を揺るがすような強烈な咆哮が響き渡った。空気がびりびりと震え、天井の染みが吹き飛ばされるように次々と蒸発していく。その中で唯一残っている染みの中でもがきのたうつ、異形の黒い影。
 遥自身もユラの咆哮の風圧に煽られながらも、なんとか足を踏ん張って弓を構えた。意識を集中し、狙いを定め、力を放つ。
 天井の一点で光が弾けるのと同時に濁った悲鳴が上がり、やがてその光がおさまったときには、黒い染みも精螻蛄の姿も、完全に消え去っていた。


 制服姿の少女が体育館から出てくるのと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。慌てたように少女が駆け出す。そして、ちょうどそれと入れ替わるように、別の少女が体育館の中に足を踏み入れた。
 チャイムの音と、屋根を叩く雨の音だけが聞こえてくる。屋根にも床にも何の痕跡もない、普段通りの体育館だ。
「さすが遥ちゃん。司くんも気づいてはいたみたいだけど、頼ったりはしないんだ。あくまでひとりで片付けるのね」
 形のいい唇に指をあてて、少女――不知火は少し思案をめぐらせる。それからふと思い出したように「……ああ、いけない。授業が始まるんだった」とつぶやいて、軽やかに身を翻した。


          *

 遥が学校からの帰り道でふたりの姿を目にしたのは、その数日後のことだった。
 いつものカイノキの並木の坂道を、司と不知火が並んで歩いている。部活の後の帰り道。あれからまだ不知火は弓道部の見学に来たことはないが、練習が終わるのを待っていたのだろうか。
 後ろ姿で司の表情は見えないが、不知火は正面よりも司のほうをよく向いて、楽しそうに喋っている。いつから待ち合わせて帰るようになったのだろう。不知火の家もこの方向なのだろうか。
 遥はとっさにふたりから目を背け、道を曲がった。
「おい、遥」
「今日はこっちから帰る」足元を歩く黒猫に、ぶっきらぼうに答える。「大丈夫よ。朝も妖怪の気配はなかったし、もし何か出ても走ればすぐの距離だもの」
「嫌なら嫌だって、はっきり言えばいいじゃねえか」
「何が? 誰と帰ろうが司の自由でしょ」
「だったらそういう……」
 ユラは呆れ混じりに言いかけたが、結局、口をつぐんでやれやれと言いたげに頭を振った。


「おや、これは坊ちゃん、お帰りなさいませ」
 途中で不知火と別れた司が家に帰ると、ちょうど玄関から小鬼のような妖怪が出てきたところだった。
窺鬼ききか。久しぶりだな」
「今し方、旦那様にご挨拶してきたところでございます」
 窺鬼と呼ばれた妖怪は大げさなほど恭しく頭を下げてみせた。この妖怪は、手っ取り早く言えば情報屋だ。ネタとなる情報を集めて全国を飛び回っては、「妖怪新聞」なるものを書いて配っている。しかも、人間にも興味があるという変わり者で、有力な術者の一族であるこの鏡見家にも、昔から様々な情報をたずさえて出入りしている。全面的に信用はできないが、司たちにとっては貴重な情報源のひとつだ。
「新しい新聞ができたのでございますよ。旦那様にはすでにお渡ししましたが、どれ、坊ちゃんにも一部差し上げましょう」
「追加料金が発生しないなら」
「もちろんですとも! この窺鬼、いつもお世話になっている鏡見家の方々に、そのようなせこい真似はしませんとも、ええ」
 どこか癇に障る卑屈な物言いだが、ふと窺鬼は顔に貼り付けたへりくだった笑みを途切れさせ、何かもの言いたげな様子で司が帰ってきた方向を見つめた。
「どうかしたのか?」
「ああ、いえ、なんでもございません。それでは、くれぐれもお気をつけて」
 慇懃に一礼して、窺鬼は門のほうに歩み去って行く。司もそのまま家に入ろうとしたが、何かが引っかかった。
(……くれぐれもお気をつけて?)
 なんということはない別れの挨拶だ。あの小鬼も、司の立場については知っている。だが、今までわざわざそんな言葉をかけられたことがあっただろうか?
 しかし、問いただそうと振り返ったときにはもう、窺鬼の姿は見えなくなっていた。





戻る | 目次 | 進む
TOP

Copyright (C) PinkNokko's All Rights Reserved.