斑鳩の空



第四話 ガーベラと私


 今にも雨の降り出しそうな曇り空を、司は縁側に腰を下ろしてぼんやりと見上げていた。
 左腕のシャツの下には包帯が巻かれている。昨日、怪我をした司が帰宅すると、案の定、家中が大騒ぎになった。すぐに遥の父親も駆けつけ、司に付き添って家まで送ってきた遥ともども、ユラをはじめとする大人たちからみっちりと説教を食らった。
 ――大事に至らなかったからよかったものの。
 ――司、おまえは自分の立場をもう少し自覚しなさい。
 そしてその晩は、司の流した血の匂いに惹かれて危険な妖怪が集まってくる危険があるため、一族の術師たちが見回りに出た。
 つまり、それだけの大事なのだ。司が血を流すというのは。
 小学生の頃にも同じようなことがあった。襲ってきた妖怪を自分たちで始末できたことだけは違うが、それ以外はほとんど同じだ。妖怪に襲われ、遥を助けようとして司が飛び出して、怪我を負った。
(進歩がないな、俺も)
 飛び出すべきでなかったことはわかっている。
(でも、もしあそこで俺が傍観して、遥が殺されるようなことになっていたら?)
 遥の怪我と司の怪我なら、大人たちが遥の怪我を選べというのもわかる。わかりたくはないが、そうしなければならないことは承知している。
 けれど、もし命に関わるようなことになったら。天秤にかけるものが遥の命になったとしても、司が無傷でいることのほうが大切だというのか――……。
「……司くん?」
 少し離れたところから声をかけられ、司はハッとして声のしたほうに視線を向けた。見れば、生け垣の低くなっているところから、薄い色の髪をした少女が顔をのぞかせていた。
「ごめんね、こんなところから。姿が見えたものだから、つい声をかけちゃった」
「不知火さん」
「おうちの場所、クラスの子に聞いたの。司くん、怪我したって聞いて。今日お休みだったから、ひどいのかなって……。でも、よかった、元気そうで」
 いきなりごめんね、と少し照れたように笑う。
 不知火麻夕のこういう、一見無邪気な表情を、周囲の友人たちは可愛いと言う。そして、傍目にも明らかな好意を向けられている司を羨ましがる。当の司としては、それほど浮かれて喜ぶ気にはなれないのだが。
「心配してくれてありがとう。でも、そんなに大した怪我じゃないから。明日には学校にも行けると思う」
 立ち上がって不知火のほうへ歩み寄りながら言う。だから見舞いの必要はない、という言外の意味を察したのか、不知火は少し困ったような曖昧な表情で「うん」とうなずいた。と、そこへぽつりと雨粒が落ちてきた。とうとう降り出したのだ。
「あ……降ってきちゃった」
「不知火さん、傘は?」
「持ってないの。朝、天気予報では降らないって言ってたから……」
 そう言っている間にも雨脚が強くなってくる。司は気づかれない程度に小さく息をつくと、「とりあえず入って。玄関、向こうだから」と門のほうを示した。
「え、いいの?」
「傘もなしで雨の中を帰らせるわけにはいかないだろ。いいから、玄関に回って」
 ここで追い返して風邪でも引かれたほうが面倒なことになる。不知火がうなずいて小走りに門のほうへ駆け出すのを確認すると、司も縁側から家に上がり、玄関に向かった。
「……ごめんね、なんか図々しくて」
 申し訳なさそうに三和土に佇む不知火に、司はタオルを渡しながら言った。
「心配してくれるのはありがたいけど、やめたほうがいいよ。うちに来たりするのは」
「……やっぱり迷惑だった?」
「迷惑っていうか、クラスの奴とかに見られたら誤解されたりするだろうし。そういうの困るだろ、不知火さんも」
 不知火はうつむいてその言葉を聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「……私はべつに、困らないんだけどな」
「俺は困るよ」
 司のきっぱりとした言い方に、不知火がハッとしたように顔を上げる。不安げな眼差しを向けられても、司は口調を変えなかった。
「今までは、何かはっきり言われたわけじゃないし、俺も友達として接してきたけど、こういう思わせぶりな、中途半端なのは困る。どこかできちんと線を引かないと、俺にとっても不知火さんにとってもよくない」
「……それは」
 言いかけた言葉を途切れさせ、不知火は戸惑うように視線をさまよわせた。それから、思い切ったようにもう一度司を見る。
「それは、私がこれから司くんに告白しても、だめっていうこと?」
「うん。ごめん」
「……そっか」
 そっと目を伏せ、かすれた声でつぶやく。
「私、ずっと迷惑だったね。ごめんね、気づかなくて。タオルありがとう」
「不知火さん」
「ごめん、もう帰るから」
 わざとのように明るい声で早口に言いながら、不知火は司の手にタオルを押しつけ、そのまま雨の中に出て行こうとする。
「不知火さん、傘」
「いいの。たいした雨じゃないし、それに」
「不知火さんに濡れて帰られると、俺が困るんだ。いいから使って。返すときは、学校の傘立てに入れておいてくれればいいから」
 不知火は一瞬、驚いたように司を振り向いたが、すぐに寂しそうな微笑みを浮かべた。
「……そっか、そうだよね。ほんとにダメだね、私。そういうこと、全然気が回らなくて」
 ごめんね、ありがとう、借りるね。つぶやくように言って、司が差し出した傘を受け取る。地味な黒い傘を差した不知火の姿が雨の向こうに見えなくなると、司は大きくため息をついて玄関に座り込んだ。


 扉を開けた不知火を迎えたのは、「あーあ、フラれちゃった」という、皮肉っぽくからかうような声だった。
 森の中にぽつりと建っている一軒の洋館。それほど大きくはないが、瀟洒な造りで、もともとはこのあたりの金持ちの持ち物だったのだという。長年、人の手も入らずにすっかり荒れ果てていたのを、不知火が元のように外観や内装を整え直したのだ。もちろん、妖術によって。
 暖炉のある広い部屋の窓の前に置かれたソファに、女がひとり、足を組んでゆったりと座っている。波打つ長い黒髪と、紙のようにのっぺりと不自然に白い肌。着ているものは黒ずくめで、唇と爪が異様なほど赤い。
「覗き見とはいい趣味ね、女郎蜘蛛」
 不機嫌そうに言い捨てて、不知火はもうひとつのソファの上に鞄と上着を投げ出した。
「あら、覗き見だなんて人聞きの悪い。蜘蛛なんてどこにでもいるものよ」
 女郎蜘蛛と呼ばれた女は悪びれもせずに言った。蜘蛛を統べる存在であるこの妖怪は、眷属の目を己の目として使うことができるのだ。
「あんな少年ひとりを落とすのもままならないなんて、あなたも案外たいしたことないのね。ずいぶん気合いの入った化け姿のようだけれど」
「そんな口を利いていいのかしらね。昨夜から警戒が厳しくなってこのあたりに近づけもしなかったくせに。一体誰のおかげでここまで来られたと思ってるの?」
「その点については感謝してるわ。本当、化けたり忍び込んだり、コソコソしたことがお得意よねぇ、カワウソさん」
 その瞬間、不知火の瞳に不穏な光が閃いた。ざわりと空気が騒いだが、女郎蜘蛛は妖艶な笑みを顔に貼り付けたまま、相変わらず自分の城のようにくつろいでいる。
「やあね、そんなに怒らなくてもいいじゃないの。獺風情にしてはたいしたものだって褒めてあげてるんだから」
「それはどうも。よかったらあなたにももう少しマシな化け方を教えてあげましょうか? センスが少し古すぎるようだから。ああ、それとも年増だから仕方ないのかしら」
 にっこりと笑って言い返した不知火に、今度は女郎蜘蛛が笑みを引きつらせる。
「あら、ご親切に。でも結構よ。あんな坊やのひとりも籠絡できないようじゃ、あなたのセンスとやらもたいしてあてにはならないみたいだから。それに、本当に能力のある妖怪にとってはね、人の姿に化けることなんてほんの戯れでしかないのよ。化けるしか能のない獺サンにはわからないでしょうけど」
「そうだったわね、ごめんなさい。私のほうこそ、蜘蛛を操るしか能のない蜘蛛女には地面を這い回る蜘蛛の姿のほうがお似合いなんだってこと、忘れてたわ」
「蜘蛛は美しいものよ。そういうあなたは己の本来の姿に誇りを持てないのかしら。惨めよねぇ、劣等感の塊って」
 女郎蜘蛛は余裕を取り戻したように皮肉たっぷりに笑ってみせると、
「じゃあ、そろそろお暇するわ。“御印の子”は先に仕留めた者勝ちという昨日の言葉、忘れないでちょうだいね」
 優雅な動作で立ち上がり、何かを掴むように白い手を頭上に差し伸べた。その手にきらりと銀色の糸が光り、黒髪の女の姿はすうっと溶けるように消えた。
 不知火はしばらく黙って女郎蜘蛛の座っていたソファを睨んでいたが、やがて鋭い声で「窺鬼!」と呼んだ。ドアの陰で、小さな黒い影がびくりと飛び上がる。
「は、はい。お呼びでしょうか、不知火さま」
 おそるおそる顔をのぞかせたのは、新聞屋の小鬼だ。
「さっきからそこにいたのはわかってるのよ。私に感知される範囲でコソコソと盗み聞きするのはおやめ。不愉快だわ」
「申し訳ございません、性分でして、つい……」
「今後はせいぜい気をつけることね。わかったならさっさとお下がり。おまえにはここで聞き耳を立てる以外にやることがあるはずよ」
「もちろんです。すぐに行ってまいります」
「――窺鬼」
「は」
「私の正体をどこかで言いふらしたりしてごらん。おまえのはらわたを引き裂いて、死んだほうがマシだという目に遭わせてやるから」
「もちろん、口外などいたしませんとも。不知火さま」
 恭しく一礼して窺鬼も姿を消すと、不知火はゆっくりと窓に歩み寄った。そこに映る美しい娘の姿を、睨むように、食い入るように見つめる。
「これが私……私の姿……そうよ、化けることに長けていて何が悪いの」
 女郎蜘蛛が言った通り、不知火の正体は獺という小さな獣だ。妖怪としては、それほど上等ものとは見なされていない。
 化けることと妖怪としての気配を消すことは、昔から群を抜いてうまかった。仲間内などは言うまでなく、名高い妖狐たちにも引けを取らない完璧な変化ができたし、人間に正体が知れるようなヘマをしたこともない。しかし、どれだけうまく化けようと、人を騙そうと、他の妖怪たちからは「所詮は化けるだけの獺」と馬鹿にされ続けてきた。
 化けるだけでなく、もっと強い妖力がほしかった。「不知火」という言葉を彼女に教えたのは、誑かして食ってやろうと思っていたひとりの修行僧だった。
 ――そなたは、話に聞く不知火というものに似ている。
 ――夜の海に浮かぶ、何とも知れない火のことだそうだ。そなたも、美しいが正体が知れない。
 勘のいい僧だったが、食ってみると、霊力は期待したほどではなかった。だが、不知火という言葉は気に入った。今までは適当な名を気まぐれに名乗っていたが、それから彼女は不知火と名乗るようになった。
 獲物を狩り続けることで不知火は長い年月を生き、多少なりとも妖力を高めてはきたが、それでも「獺風情」と見下されることは変わらなかった。そして、その屈辱の日々の中で、斑鳩の鬼神のことを知った。
「誰にも渡さない。鬼神の力は、必ず私が手に入れる……」
 もう、誰にも自分を馬鹿にさせないために。
 今まで自分を見下してきた妖怪たちも、女郎蜘蛛も、卑屈な笑みの裏で相手を値踏みしているのが見え透いている窺鬼も。すべて見返してやる。
 窓枠に置いた手を、不知火はきつく握りしめた。


          *

 遥が学校から帰ってくると、玄関先に見覚えのない鉢植えが置いてあった。リボンのかかった可愛らしい鉢から、赤い花弁がきれいに並んだ花が数本、まっすぐに伸びている。
「ガーベラ……かな?」
 首をかしげてつぶやくが、花の名前にはあまり詳しくないので自信はない。
 ただいま、と小さく言いながら玄関に入ると、奥から笛の音が聞こえてきた。なじみ深いメロディだ。それに、この音、この吹き方も。
 音の出どころを探してひょいと庭に面した部屋をのぞき込んでみると、淡い色のワンピースを着た後ろ姿が見えた。畳に直接座り、ゆったりと笛を吹いている。その隣ではユラが気持ちよさそうに丸くなっていた。
 廊下に立ったまま、遥もしばらくその音色に耳を傾けた。いつも遥が吹いているのと同じ曲だが、吹き手が違えば響きも違う。この笛は、遥の吹く音よりもずっと優しくて穏やかだ。
 曲が一区切りついて音が途切れると、気配に気づいたようにその人物が振り返った。
「あ、お帰り、遥。今日も部活?」
「うん。お姉ちゃんこそ、帰ってたんだ」
 遥を見てにっこりと笑ったのは、姉のゆかりだった。妖怪を見ることはできるが遥や父の彰宏のように戦う力までは持っていない紫は、今は隣の県で一人暮らしをしながら大学に通っている。専攻は、確か民俗学だ。
「レポートの資料集めのためにね。私、卒論ではこのあたりの郷土史をやろうと思ってて、今度のレポートもそのための準備なの」
「へえ……もう卒論のテーマとか決めてるんだ。あ、ひょっとして、表にあった鉢植えってお姉ちゃんの?」
 ふと思いついて尋ねると、紫はニコニコと「うん、そう」とうなずいた。
「可愛かったでしょう、赤いガーベラ。駅前の花屋さんで見つけて、つい買ってきちゃった。ここに置いていくから、後の世話はお願いね」
「持って帰るつもりもないのに買ってきたんだ……。お姉ちゃんって、基本的には倹約家なのに、たまに変なお金の使い方するよね」
「そうかなぁ」
 のんびりと首を傾げる紫の横で、ようやく起き上がったユラが伸びをした。どうやら居眠りしていたらしい。 「花はどうでもいいが、相変わらず笛は紫のほうがうまいな。久々にマトモなこの曲を聴いたぜ」
「何よ、失礼ね。それじゃ私がまともに吹けてないみたいじゃない」
「事実だ、事実」
 あくびをしながらトコトコと部屋を出て行くユラを、遥は「もう」とつぶやいて見送る。紫はそんな妹をしばらく見やってから、「ねえ、遥」と声をかけた。
「ひょっとして、何かあった?」
「え? 何かって、何が?」
 遥は一瞬どきりとしたが、努めて明るく「べつになんにもないよ。どうしたの、急に」と笑いながら手を振ってみせた。
「ううん、何か落ち込むようなことがあったんでしょう。様子がいつもと違うことくらいわかるんだから。それに、遥が何でもないって言うときは、大抵何かあるのよ」
「…………」
「どうせまたひとりで抱え込んでるんでしょう。さあ、話して楽になっちゃいなさい」
 紫はぐいぐいと迫ってくる。どうやら、追及の手をゆるめてくれる気は毛頭ないようだ。
 観念して、遥はぽつりぽつりと話し始めた。司のこと。不知火のこと。そして、自分のせいでまたしても司に怪我をさせてしまったこと。
「……こんなんじゃダメだって、わかってはいるんだけど、どうしても気持ちの切り替えができなくて……。どうしよう、私。こんな状態で、この先ちゃんと司を守っていけるのかな……」
「そういうときはね、遥。一度、基本に戻ってみるの」
「基本?」
 聞き返した遥に、紫はうなずく。
「遥にとって、司くんはどういう存在なのか。本当に嫌なことは何で、今つらいのはどうしてなのか。できるだけシンプルにね。そうやって出てきた答えをちゃんと認めてあげれば、これからどうするべきかもきっと見えてくるよ」
「シンプルに……」
「大丈夫だよ、遥なら。――ねえ、ガーベラの花言葉って知ってる?」
 唐突な話題の転換に面食らいつつも遥が「知らないけど……」と答えると、紫はにっこりと笑った。
「赤いガーベラの花言葉はね、『常に前進、チャレンジ』。今の遥にぴったりでしょう? きっとあのガーベラは、今日、来るべくして遥のところに来たのよ」
「お姉ちゃん……」
「だから、ちゃんと水やりしてあげてね」
「うん……最後のはちょっとこじつけくさいけど、ありがとう」


 慌ただしい彰宏の声に起こされたのは、その日の夜遅くだった。
「遥、すぐ起きて支度をしなさい! さとるくんの家が妖怪の襲撃を受けてるそうだ。すぐに行くぞ!」
 聡というのは司の父親の名前だ。つまり、鏡見家が襲われているということである。遥は飛び起きると、手早く着替えて髪をまとめて部屋を出た。
「一体何事かしら。鏡見のお家は結界もしっかりしてるはずなのに……」
 母の千紗子も起き出してきている。騒ぎに気づいたのか、紫も「どうしたの?」と顔を覗かせた。長月家の人間であればこの手の騒ぎには慣れているが、さすがに鏡見の家の守りに駆けつけるという事態は始めてだった。
「詳しいことはわからん。向こうも長々と説明している暇はないようだった。とにかく急ぐぞ、遥。もう出られるな? ユラはどこだ?」
「お父さんのすぐ横」
「おい、彰宏。てめえの目は節穴か」
 遥とユラがほぼ同時に答える。
「おお、すまんすまん。小さくてつい見落とすんだよなぁ」
「てめえが昔からうっかりしすぎてるんだろうが」
 一見、呑気な言い合いをしながら玄関に向かう。
「遥」家を出る直前、紫が遥に呼びかけた。「大丈夫。遥は私が知ってる中で、一番強い女の子だから」
 まっすぐな声と眼差し。遥は紫にうなずき返すと、彰宏とユラとともに夜の中へ飛び出した。


 鏡見家を襲っていたのは、黒い影のような形のはっきりしない妖怪だった。ザワザワと蠢く黒い影が塀や生け垣に群がり、あちこちから庭に侵入してきている。
「畜生、いくら修復しても次から次へと……これじゃキリがねえぞ!」
 悪態をついているのは、遥たちより先に駆けつけて来ていた裕哉だ。他にも、鏡見家の親戚の術者が何人か、すでに対応に追われている。
「どうなってるんだ、聡くん。この家の結界は簡単に外から破られるようなものじゃないだろう」
「考えられるとすれば、あらかじめ内側から結界に亀裂を入れられていたという可能性だが……しかし、ここ数日でこの家に入った妖怪といえば窺鬼くらいのものだ」
 彰宏の問いに鏡見聡が答える。歳は聡のほうがやや上だが、このふたりも、ともに妖怪たちと戦いながら育ってきた幼馴染みだ。
「窺鬼か……。あれが来たときには、敷地を出るまできちんと縛りをつけているだろう?」
「もちろんだ。だから不可解なのだが……とにかく今はあれを退けなければ話にならん。家に入り込まれるようなことだけは絶対に避けなければ」
「まかせてくれ。そんな真似はさせん」
「恩に着る、彰宏」
「何をいう、当然のことだろう」
 笑って答えたそばから、彰宏の手がするどく弦を弾く。暗闇に流星に似た一瞬の軌跡が走り、今まさに塀を乗り越えようとしていた影が弾け散った。
 遥たちは、ひたすら影の撃退と結界の修復に走り回った。しかし、裕哉の言葉通り、次から次へと結界に亀裂が入り、修復が追いつかない。
 そうして何度も影を散らしているうちに、遥はふと気づいた。
「これ……影じゃない。蜘蛛だ……」
 認識した瞬間、ざわりと肌が粟立つ。蠢く影に見えたのは、無数の小さな黒い蜘蛛の群れだったのだ。いくら異形のモノたちを見慣れているとは言っても、これだけ大量と蜘蛛となると、寒気も感じようというものだ。その寒気を振り払うように、遥は次々と矢を放っていった。
 同じ頃、司は家の中の一室におとなしく座っていた。座らされていた、というのがより正確なところだ。おとなしく安全な場所に隠れているというのが司に課せられている役目ではあるのだが、それにしても、外では家族や親族たちが戦っていると知りながらひとりじっとしていなければならないというのは、どうも落ち着かない。
「おい、司。念のため、一応この部屋にも結界張っとくぞ」
 そう声をかけながら入ってきたのは裕哉だった。
「裕哉、外はどうなってる? さっき彰宏さんの声が聞こえた気がしたけど」
「おう、来てるぜ。遥もな」
「大丈夫なのか? この部屋まで結界が必要ってことは、状況は悪いのか」
「念のためって言ってるだろ。状況は、まあ、よくはない。見た感じ、特に遥が集中攻撃されてるみたいだな」
「遥が? どうしてまた」
「さあな。この顔ぶれじゃあいつが一番未熟そうだってのが、向こうにもわかるんじゃねえか」
 司は反射的に立ち上がりかけた。しかし、そこに作業の手を止めないままの裕哉の鋭い声が飛ぶ。
「何のつもりだ? 司」
「俺も戦えないわけじゃない。矢面には立てなくても、援護くらいなら……」
「おまえ、本当に自分の立場がわかってんのか」
 じろりと司を睨んだ裕哉の視線は、いつになく厳しいものだった。容赦のないその口調も。
「“御印の子”であるおまえが妖怪にやられたらどうなる? いつも怪我で済むとは限らねえんだぞ」
「でも、できることもしないで誰かを犠牲にすることは違う」
「決めつけるな。おまえはこれからも、遥が苦戦したり、危険な目に遭うところに直面したりする。それは間違いない。けどな、いちいちそれに反応して飛び出す前に、まず考えろ。遥が何のためにあんなに必死になってるのかを」
「…………」
 思わず黙り込んだ司に、それ以上の説教は必要ないと判断したのか、結界を張り終えた裕哉は普段の軽い調子に戻って「心配いらねえよ。怪我人はおとなしくしてろ」と言い置いて部屋を出て行った。
 裕哉が行ってしまった後も、結局、司が部屋を出ることはなかった。

 途切れることのない執拗な攻撃に遥たちは神経と体力をすり減らしていたが、しびれを切らしつつあったのは、襲撃者――女郎蜘蛛のほうも同じだった。
 己の分身と呼び集めた眷属をありったけぶつけているというのに、人間の術師どもは思った以上に手強く、隙を見せない。時間が経てば経つほど鏡見家を包囲する蜘蛛の数は減らされ、状況は女郎蜘蛛にとって不利になりつつあった。
「ええい、忌々しい。このままでは夜が明けてしまう……!」
 この家の中のどこかに“御印の子”がいることはわかっているのに、一向に庭より中に入り込むことができない。女郎蜘蛛は焦り、苛立ち始めていた。
「こうなったら、弱そうな奴から順に喰い殺してくれようか……!」
 複数の術者がいる場所に本体を晒すことの危険性は承知していたが、ここで退いたりすれば、あの生意気な獺の小娘に何を言われるかわかったものではない。女郎蜘蛛は、もうほとんど体力が尽きかけているように見える少女に狙いを定めた。

 目の前に盛り上がった黒い影が巨大な蜘蛛の姿になるのを、遥は肩で息をつきながら見つめていた。
 黒く長いもつれた髪。青白い顔。そして、闇の中に浮かび上がる八本の蜘蛛の足。
「フン、とうとう本性を現しやがったな」ユラがつぶやく。
 悪夢のように蠢く巨大な足が自分に向かって襲いかかってくるのを見ながら、遥は自分自身に問いかけていた。なぜ自分は戦うのか。息が切れて疲れ果てても諦めようと思わないのはなぜなのか。大事なものは何なのか。
(役目だから司を守るんじゃない。司を守りたいから、私はこの使命を受け入れたんだ)
 出がけに紫の言った言葉が脳裏によみがえる。遥は、私が知っている中で一番強い女の子だから。
(大丈夫。私は強い。強くなれる)
 浮かんでくるのはガーベラの花のイメージだ。常に前進し続けろと告げる、可憐な赤い花。
 弓を引く手元に、あざやかな金色の光が膨れ上がる。そして、遥は渾身の一撃を女郎蜘蛛目がけて放った。


          *

 司にようやく登校の許可が出たのは、女郎蜘蛛の襲撃から二日後のことだった。
 あの夜、遥が本体に対して放った一撃が女郎蜘蛛の息の根を完全に止めたかどうかはわからなかった。しかし、致命傷に近いダメージを与えたことは確かだったようで、耳をつんざくような悲鳴とともに黒い影は霧散し、執拗に続いていた攻撃も止んだ。
 早めに家を出てきたせいか、学校にはまだあまり人気がない。教室に入ると、女子生徒がひとり、ぽつりと窓際に立って外を見ていた。開けた窓から風が入って、長い黒髪がかすかに揺れている。見慣れた後ろ姿だ。
 こちらから声をかけるより先に、遥が振り返った。
「……司」
「よう、早いな」
 短いが、棘のないやりとり。そういえば、最近はこの程度の挨拶を交わすことさえなかったような気がする。
 遥はまっすぐに司を見ていた。久しぶりに正面から受け止める、遥の眼差し。
「私、強くなるから」
 迷いのない声。
「絶対に、もっと強くなるから」
 差し込む朝の陽射しが、遥の輪郭を淡い金色に染めている。その姿がほんの少しだけまぶしいような気がして、司はかすかに目を細めた。





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