斑鳩の空



第五話 ノートに書いた空白の言葉


 牧野まきの和代かずよは、長月呉服店の古株の従業員だ。今ではすっかり店を切り盛りするのが板についている若奥さんの千紗子が嫁いでくる前から勤めていて、もちろん、長月家のふたりの娘、紫と遥のことも生まれた頃から知っている。牧野にとって、長月家はもうひとつの家族のようなものだ。
 牧野には昔から少しだけ霊感のようなものがあり、いつの頃からか、長月家がどうやら普通のお家ではないらしいこと、飼い猫のユラがただの猫ではないらしいことに、薄々気づいてはいた。お店やその周りではときどき不思議なことが起こるし、ユラは牧野が勤め始めた頃からまったく歳を取った様子がない。そして、長月家の人々は、どんな奇妙なことが起こってもまったく驚いたり慌てたりせず、何でもない顔をしてやりすごしてしまうのだ。人によっては気味が悪いと思うかもしれないが、牧野は長月一家のことが好きだったし、不思議な人たちだなと思う程度で、それほど気にしてはいなかった。
 “それ”を見つけたのは、ある朝のことだった。
 店の裏手の従業員用の通用口から事務所に入ろうとしていた牧野は、ふと壁と塀の隙間から小さな黒い手がのぞいていることに気がついた。
 何か探しているのか、手はしきりにパタパタと動いている。明らかに異形のものではあるのだが、その動きがどことなくコミカルで子供っぽく、牧野は思わずくすりと笑ってしまった。
「かわいいわね。あなた、何を探しているのかしら?」
 この店ではいろいろなことが起こるが、本当に危険なものと遭遇したことは一度もない。牧野は特に根拠もなく、ここには人に危害を加えるようなタチの悪いものは入ってこられないのだと信じ込んでいた。その安心感と気安さから、軽い気持ちでその手に近づいた、次の瞬間。
 突然、黒い手が伸び上がるように巨大化した。あっと思う間もなく、視界が真っ黒に覆われる。そして、牧野の意識はそこで途切れた。


 地面に落ちる影を伝うようにしながら、黒い影の塊のようなモノが、森の中に建つ小さな洋館を目指していた。頭はなく、四本の細い足で胴体を引きずるように移動している。その体には、古びた巻物のようなものが半分埋もれるようにして取り込まれている。
 洋館に辿り着いた影の妖怪は、壁をよじ登り、開いていた窓の隙間から中に入り込んだ。窓枠からぼとりと床に落ち、さらに二階の部屋を目指す。
 暖炉のあるその部屋では、少女がひとり、ソファに腰を下ろして窓の外を眺めていた。すらりと長い足を組み、ぼんやりと肘掛けに頬杖をついている。淡い色の目が不意にきらりと光って、足元にやってきた影の妖怪を見下ろした。
「思ったより時間がかかったわね」
 ひやりとしたその声に、黒い影の塊がびくりと震える。しかし、不知火はすぐににこりと微笑んだ。
「いいのよ、気づかれないことが一番大事だったんだから。おまえはよくやったわ」
 影の黒い胴体から二本の細い腕が伸び出し、自分の中に埋もれていた巻物を取り出す。受け取った不知火はそれを膝の上で開き、「そう、これよ」と満足げにつぶやいた。
「窺鬼の情報は役に立ったわね。こんなものがあるなら、使わない手はないわ」
 古びた巻物は、見るからに長い年月を経てきたものだ。しかし、保存状態がよかったのだろう。それほどひどく傷んではいない。
 丁寧に巻物を広げていった不知火は、やがて目的のものを見つけ、書かれた文字を白い指先でそっとなぞりながら微笑んだ。
「さあ、これで司くんはどれくらい苦しむかしら?」


          *

「狙いがぶれてるぞ、遥。もっと集中しろ!」
 ユラの容赦ない声が飛ぶ。天気のいい日曜日、遥は朝から長月家の古参の使い魔であるユラにみっちりとしごかれていた。
 長月家の裏手には比較的広い庭があり、そこが遥の普段の稽古場となっている。庭の向こうは林なので、羽の生えた小さな使い魔に罵倒されながら弓を引いていても、通行人に目撃される心配はない。
「ユラ、ちょっと休憩……」
「この程度でバテてどうする。彰宏のほうがまだ鍛え甲斐があったぞ。まあ、あいつの場合は鍛錬をサボろうとするのをとっ捕まえるほうに苦労したもんだが」
 褒めているんだかけなしているんだかよくわからない。
 しかし、ユラの言葉に遥が言い返そうとしたとき、どこからか悲鳴が聞こえた。母の千紗子の声だ。
「……蔵のほうか」
 ぴくりと耳を動かしたユラがすぐさま身を翻す。遥も慌ててその後を追った。
 長月家には、母屋の隣に古い蔵がある。千紗子がいたのはその蔵の前だった。地面に誰か倒れていて、その横に膝をついている。
「……マキさん!」
 倒れていたのは、店の従業員である牧野だった。そして、なぜか傍らの蔵の戸が開きっぱなしになっている。
「お母さん、一体どうしたの? まさか、マキさん……」
「大丈夫、生きてるわ。気を失ってるだけみたい」
 答える千紗子の声はすでに普段のしっかりしたものに戻っている。
「とにかくマキさんを運びましょう。遥、母屋の座敷に予備の布団を敷いてちょうだい」
「う、うん」
 何が何だかわからないが、遥は言われるままに家に戻って予備の布団を用意し、遅れて駆けつけてきた彰宏がマキさんを運んだ。背負われて運ばれても、座敷に寝かされても、マキさんはぐったりと目を閉じたままだった。千紗子と遥で介抱している間に、彰宏が蔵を調べに行った。
「扉のそばに鍵が落ちていた。マキさんが開けたんだろう」
 戻って来た彰宏は、遥たちの前に鍵を置きながら言った。
「マキさんが? でも、どうしてこんな朝から……」
 蔵の手前の部分は、店の備品置き場としても使っている。だからマキさんが入ること自体はおかしくないのだが、蔵に用事があるときは、必ず千紗子か彰宏に一声かけるのが決まりになっていた。マキさんはそういった決まり事はきちんと守る人だし、まだ店を開けてもいない時間だ。蔵に急な用事ができたとも思えない。
「たぶん、マキさんの意思ではないだろう。――巻物がひとつ、なくなってる」
「え?」
 遥と千紗子が弾かれたように彰宏に視線を向けた。ユラの尻尾もぴくりと動く。
 蔵の奥、特に二階の部分には、長月家に代々伝わる古い書物や呪具などがしまわれている。そういっ場所にはもちろん、守りの術が施されてはいるが、あくまで悪い気や妖怪の侵入を防ぐためのもので、人間にはあまり効果はないのだ。
「つまり、巻物を盗み出すために何かがマキさんに取り憑いたということ?」
 千紗子の問いに、彰宏は「ああ」とうなずいた。
「そう考えるべきだろう。なくなっているのは、長月高尚が“斑鳩の鬼神”の封印の儀式について記した巻物だ。鬼神の力に興味のある者以外にとっては、ただ古いだけでたいした価値のあるものじゃないからな」
「でも、どうするの? その巻物、取られたままにしておくわけにはいかないでしょう?」
 思わず遥も口を挟む。
「もちろん、急いで取り返さないといけない。遥、ユラ、巻物の行方を追ってくれるか。ユラの鼻なら匂いを辿れるはずだ」
 動き回るのが好きな彰宏のことだ。本当は自分が追跡に行きたいのだろうが、もし本当に妖怪の仕業であるなら、どうやって敷地内に入り込まれたのか調べる必要もある。
「本当はこういうコツコツ地味な作業は聡くんのほうが得意なんだがなぁ……」
「ブツブツ言ってねえでさっさと調べろ、彰宏。おい遥、行くぞ」
 ユラがするりと外歩き用の黒猫の姿になって立ち上がる。遥は意識のないマキさんをちらりと振り返り、すぐにユラを追って縁側から外に出た。千紗子は千紗子で店を空けたままにはしておけないし、どうやら今日は、平穏な日曜日とはほど遠い一日になりそうだった。


          *

「おい、司! 知ってたか、この間、紫さんが帰ってきてたらしいぞ!」
 襖を開けるなりそう叫んだ裕哉を、司はやや迷惑げな表情で見上げた。
「……知ってるけど。うちにもちょっと顔出してくれたし。むしろおまえのほうがいつ来たんだ、裕哉」
「今さっき、ジジイからの届け物しに。冬子さんに渡してきたところだ」
 冬子は司の母親の名前だ。裕哉は小さい頃からお使いだなんだとこの家にはよく出入りしているので、冬子もいちいち「裕哉くんが来てるわよ」などと声をかけてきたりはしない。
「つーかおまえ、紫さん来たなら教えろよ、俺に! 遥も気が利ねえしさー。あーあ、せっかくのチャンスを逃しちまったじゃねえか」
「チャンスって……おまえ、そんなに紫さん好きだったっけ?」
「美人だからな」
「この前まで不知火さんがいいとか言ってなかったか?」
「もちろん麻夕ちゃんも好きだ。美人だからな」
「…………」
 ここまで堂々としていると、いっそ清々しいくらいだ。
 胸を張って答えた裕哉は、勝手に畳の上に胡座をかいて座りながら、ふと思い出したように「そういえば」と言った。
「麻夕ちゃんといえば、おまえ、とうとうフッたんだって? けっこう噂になってるぞ」
「学年も違うのにどこからそんな噂を仕入れてくるんだよ。だいたい、ふったも何も、もともと何でもなかったわけだし」
「麻夕ちゃんのあのアタックぶりが何でもないわけあるか。その謙遜はむしろ嫌味だぞ、このモテ男め!」
「いやだから、どうしてそういう話の流れになってるんだ……」
「ま、おまえのことだからどうせあれだろ、遥の反応が気になって、はっきり告白されるまで待てずに自分から線引いたんだろ」
 一瞬、司は返す言葉に詰まった。裕哉はときどき、馬鹿なことを言っていたかと思うと突然核心を突いてきたりする。
「で、ぶっちゃけどうなんだ、おまえ」
「どうって、何が」
「“御印の子”。鬼神の力。遥。麻夕ちゃん。その他諸々」
 諸々ってなんだ、と司は思ったが、つっこむのはやめておいた。裕哉と話しているときに細かいことにこだわると、いつまで経っても話が終わらない。
「……どうもこうも、受け入れるしかないっていうのはわかってるけど、不本意ではある。俺に戦うなって言うんだったら、今まで必死になって身につけてきたものは何だったんだとも思うし」
 自分が戦うのは最終手段。いざというときのため。それはわかってはいても。
「しんどいよ。正直。目の前にできることがあるのに何もするなっていうのは」
「いっそ戦える能力なんかなかったほうがよかったか? それなら守られるだけって立場にも諦めがつくだろ」
「……いや、そうだったらそうだったで納得がいかなかっただろうな」
 司は少し考えてから、苦笑混じりにそう答えた。結局、ないものねだりだ。“御印の子”という大前提がある限り、納得のいく答えなどそう簡単には見つからないだろう。
「なあ、裕哉。俺たちは……」
 言いかけた言葉は、しかし最後まで続かなかった。何の前触れもなく、唐突にぐらりと視界が揺れる。「おい、司!?」という裕哉の慌てた声と身体を支えられる感覚に、ようやく自分が倒れかかったのだということに気づく。
「ちょ、おい、どうしたおまえ、大丈夫か」
 大丈夫だ、と答えたつもりだったが、声にならなかった。頭の中をぐるぐると掻き回されているかのようなひどい眩暈。心臓の鼓動とは別に、身体の奥で何かが大きく脈打ち始める。
「ひどい顔色だぞ。おい、しっかりしろ、司!」
 視界がかすれ、裕哉の声が遠くなる。
 これはまずい。何かよくないことが起ころうとしている。急速に薄れていく意識の中で、司はかろうじてそれだけを思った。


          *

「ふん、巻物を持ち去ったのは相当気配の薄い奴らしい。残ってるのは巻物の匂いだけだ。まあ、このオレにかかればそれだけでも十分だがな」
「巻物の匂いって、古い紙の匂いってこと?」
「おまえは極めつけの阿呆だな、遥。んなもんの匂いなんか辿れるか。高尚の呪力の匂いだ。あの巻物には、あいつの力が染み込んでるからな」
 家を飛び出した遥とユラは、消えた巻物の痕跡を追っていた。と言っても、鼻をひくつかせて先導するのはもっぱらユラの役目で、遥は妖怪の不意打ちに備えて警戒しながらその後をついて歩いているだけだったが。
「ユラは高尚さんを知ってるの?」
 長月高尚は、“斑鳩の鬼神”を封印する際、中心となって儀式を執り行ったとされる人物だ。長月家の歴代の当主の中でも特に優秀な術師だったと伝えられている。
「知ってるぜ。くそ真面目で面白味に欠ける奴だったな」
「じゃあ、ひょっとして鬼神の封印の儀式もリアルタイムで見てたとか?」
「いや、そっちは知らん。オレが高尚の使い魔になったのはそれより後だからな。人柱になったっつう鏡見雅春のことも、話に聞いたことがあるだけだ」
「そうなんだ」
 封印の器となった鏡見雅春。その血を通じて、鬼神の力は今なお鏡見の家に影響を及ぼし続けている。人柱になることを決めたとき、彼は予想していただろうか。千年の時を経てもなお、自分の子孫が鬼神に縛られ続けていることを。
「親友だったって話だ。高尚と雅春は」
「……え?」
「高尚は滅多に雅春の話はしなかったけどな。人柱になることも、雅春のほうから言い出して高尚に頼んだらしい」
「そうなんだ……」
 先程と同じ相槌だが、言葉に宿る重みはまったく違っていた。
 確かに、考えてみればおかしな話ではない。遥と司も幼馴染みだし、父親同士もそうだ。同じ時代に生きていた雅春と高尚が親しい間柄であったとしても、何の不思議もない。しかし、遥は今までその可能性について考えてみたことがなかった。親友を人柱として封じる――それには、一体どれほどの覚悟が必要だったのだろう。それを自分と司に置き換えてみて、自分に高尚と同じ決断ができるとは、遥にはとても思えなかった。
「……すごい人だったんだね。鏡見雅春も、長月高尚も」
「そうか? まあ、大層なことをやってのけたのは確かだな」
 そんな話をしながらもユラはせっせと匂いを辿り、いつの間にか遥たちは森の中に入り込んでいた。あまり来たことのない場所だ。舗装もされていない道は細く、奥に行けば行くほど鬱蒼と木が茂って薄暗い。
 その道をどれくらい進んだ頃だろうか。やがて、行く手に一軒の洋館が姿を現した。それほど大きくはないが、まるで一昔前に外国からそのまま移築してきたかのような瀟洒な佇まいだ。
「こんな森の中にこんなお家があったんだ……」
「妙な気配がするな。巻物はたぶんあそこだ。油断するなよ、遥」
「え、でも、勝手に入っちゃっていいの?」
 まさか妖怪と巻物を追ってこんな洒落た家に辿り着くとは思わなかったので、遥はやや戸惑った。巻物が持ち込まれたのがたまたまこの家だっただけで中には何も知らない人が住んでいたら、どう事情を説明したものか。
 しかし、遥の心配をよそにユラはさっさと玄関ポーチに近づき、少しだけ開いていた扉からするりと中に入ってしまった。
「あっ、もう、ダメだってば、ユラ!」
 慌てて追いかけ、玄関の前で立ち止まる。
「すみません、ごめんください! あの、うちの猫が勝手に中に入っちゃって……」
 声を張り上げてみるが、どこからも応答はない。
「留守なのかな。でも、開いてたし……」
 つぶやきながらそっと中の様子をうかがってみる。薄暗い家の中はしんと静まりかえっていて、人のいる気配はなかった。
 そこへひょいとユラが戻って来た。
「さっさと来い、遥。巻物はどうやら上だ」
「もう、仕方ないな……」
 見つかったら怒られるのを覚悟で、遥もそっと中に入った。いかにも洋館らしく靴脱ぎのスペースはなく、入ってすぐが小さなホールになっている。天井からは小振りなシャンデリアがぶら下がり、奥には二階へ続く階段があった。
 あまり物のないがらんとした感じは空き家のようにも見えるが、放置されているというほどには荒れている様子もない。一体どんな家なのだろうと思いながら、ユラについて階段を登っていく。
 黒猫の姿をしたユラの耳がぴくりと動いたのは、階段を登りきって二階の廊下に出たときだった。
「遥!」
 鋭い警告に、ハッとして遥も振り返る。しかし、そのときにはもう、音も気配もなく背後に忍び寄っていた黒い影の塊のようなものが巨大な口を開けて遥をひと呑みにしようとしているところだった。気づくのが遅すぎた。矢も呪符も、ユラが飛びかかっても間に合わない。
 反射的にぎゅっと目を閉じようとようとした、その瞬間。
 パチンという指を鳴らすような音とともに、影の塊が内側から破裂した。
「躾がなっていなくてごめんなさいね」
 軽やかな、聞き覚えのある声。
 弾けた影の残骸がパラパラと舞い落ちていくその向こうに、すらりと手足の長い少女が立っている。そして彼女は、遥と目が合うとにっこりと笑った。
「ようこそ、遥ちゃん。よくここがわかったわね」


「探しているのはこれでしょう?」二階の一室に遥たちを導いた不知火は、テーブルの上に無造作に置かれていた巻物を手に取って見せた。「せっかく来てくれたんだもの、お茶でもどうかしら。ゆっくりしていってね」
 大きな窓から差し込む穏やかな陽射し。壁際の暖炉には火は入っていないが、凝った模様の絨毯の上に揃いのソファが何脚か置かれた、いかにも居心地のよさそうな部屋だ。
 それまでひたすら唖然としていた遥が、ようやく口を開いた。
「どうして不知火さんが……。不知火さんは、妖怪と関係があったの?」
「あらやだ、遥ちゃんたら、まだそんなこと言ってるの?」不知火はおかしそうにくすくすと笑う。「関係があるんじゃなくて、妖怪なのよ。私がね」
「妖怪?」
 聞き返す遥の声は微かに掠れていた。
「不知火さんが、妖怪?」
「そうよ。遥ちゃんも司くんも全然気づいてくれないんだもの。あんまり張り合いがないから、もうちょっとヒントをあげようかと思っちゃったくらい」
「嘘」
「嘘じゃないわ。そっちの可愛い使い魔さんはもうわかっているでしょう? 私、今は妖気を抑えてないから」
「……ああ、どうやらそうらしいな」
 ユラが低く答える。その声には、今まで不知火の正体を見抜けなかった悔しさが滲んでいた。
「そんな、でも……じゃあ、不知火さんの目的はやっぱり……」
「司くんよ。決まってるでしょう? ああ、鬼神の力と言ったほうがいいかしら」
「最近いやに司を狙ってくる妖怪が多くなってた。それもやっぱり、不知火さんの仕業だったの?」
「そうね、司くんに近づきたがってる妖怪たちに少し手を貸してあげたのは事実よ。おかげでいろいろわかったわ。遥ちゃんのこととか、司くんのおうちのこととか」
「それでうちのことも調べて、マキさんに取り憑いて巻物を持ち出させたの?」
「マキさん? 誰のことだか知らないけど、取り憑いて操るなんて下等な真似はしないわ。私はただ命令しただけ。さっきの影にね。この前、遥ちゃんのおうちが手薄になった晩があったでしょう? そのときに、あの影の種をお庭のすみに植えさせてもらったの」
 手薄になった晩? と考えかけて、すぐに女郎蜘蛛の襲撃があった夜のことだと気づいた。あの日は遥とユラ、そして彰宏までもが揃って留守にしていた。その隙に忍び込まれたのか。
「あれは育った場所の気と同化しながら大きくなるから、遥ちゃんたちも、全然気配に気づかなかったでしょう? 下等なわりに便利な妖怪よね。まあ、自由に動けるようになるまで時間がかかるのが難点といえば難点だけど」
 遥は唇を噛んだ。前に一度、不知火と妖怪の関係を疑ったことがあった。それは確かに、遥の嫉妬心が生み出した、根拠のない勝手な想像に過ぎなかった。けれど、それを慌てて打ち消したのもまた、そんな自分の嫌な感情を認めまいとする気持ちだ。もしもあのとき、もっと冷静に考えることができていたら……。
「お喋りはもういい。何に使うつもりだったのか知らねえが、その巻物は返してもらうぞ」
 ユラの言葉に、遥もハッとして身構える。そうだ、鬼神の力を狙う妖怪であるなら、不知火は倒すべき敵だ。
 ふたりが戦う構えを見せても、不知火はまったく動じなかった。それどころか、
「いいわよ。もう用は済んだから」
 あっさりと巻物を投げて寄越す。
「返せばそれで済むと思うなよ。これ以上妙な真似をされたら困るからな、ここで噛み殺してやる」
 ユラの姿が黒猫から翼を持った大きな獣に変わる。不知火は「あら怖い」と笑って、ひらりと窓枠に飛び退いた。敏捷な獣が宙に跳ね上がるような、人間のものではない動きだ。
「こんなところで無駄に時間を潰しているより、早く帰ったほうがいいわよ。今頃、おもしろいことになってるはずだから」
 言い終わると同時に、不知火の姿が窓から消える。「待て!」とユラが窓に飛びついたが、不知火は外に飛び降りた様子もなく、忽然と姿を消していた。
「チッ、逃げ足の速い……。そう簡単に遠くへは行けないはずだ。探すぞ、遥。あの手の輩は逃がすと厄介だ」
 ユラはすぐにでも飛び出して行きかねない勢いだったが、遥は迷った。不知火の言い残した言葉が気になったのだ。
「巻物は取り返したんだから、今はとにかくこれを持って帰ろう。ひょっとして、司に何かあったのかもしれない」
「後を追わせないために思わせぶりなことを言っただけって可能性もあるぞ。せめてこのふざけた家だけでも焼き払っておいてやろうか」
「ちゃんとした持ち主の人がいるかもしれないんだから燃やしちゃダメだってば!」
 物騒な発言をするユラをなんとか宥め、洋館を後にする。ユラの言った通り、不知火はただ遥たちを牽制するためにあんなことを言っただけなのかもしれない。けれど、それにしては、入念に準備をして手に入れたはずの巻物をあっさり返してきたことが気にかかる。嫌な胸騒ぎがして、遥は道を急いだ。


「遥、ユラ、戻ったか!」
 遥が玄関を開けると、待ち構えていたように奥の部屋から彰宏が飛び出してきた。その慌てた様子に、心臓が嫌な跳ね方をする。
「どうしたの? 何かあったの?」
「司くんの鬼神の力が暴走しそうになっているらしい。今はなんとか聡くんたちが抑えているが、このままでは危険だと、さっき連絡があった」
「危険って、どういうふうに?」
 尋ねる声が震える。彰宏は一瞬言いよどんだが、意を決したようにきっぱりと言った。
「下手をすれば、命を落とす」
 一番聞きたくなかった答え。呆然とする遥の手から巻物が滑り落ち、その拍子に紐が外れたのか、玄関の三和土にころころと開いて転がった。
「おい遥、しっかり持ってろ。破損したらどうする……」
 注意しかけたユラが、途中でハッとしたように言葉を途切れさせた。ユラの視線を追って巻物を見やった彰宏もまた、同じように息を飲む。
「これは……どういうことだ」
 開いた巻物の一部に、不自然な空白があった。本来そこに記されていたはずの文字が、すっぽりと抜け落ちていたのだ。





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