斑鳩の空



第六話 ソラから降る黒い雨


 もしも誰かに、鏡見雅春は親友かと問われたら、おそらく長月高尚は即座に「否」と答えるだろう。
 長い付き合いであることは確かだ。ともに斑鳩の地を守る呪術師の家系に生まれ、歳も同じ。物心ついた頃から、何かと言えば顔を合わせる間柄であった。しかし、真面目で几帳面な高尚とは対照的に、雅春は何事にもいい加減で、フラフラと出歩いてばかりで鏡見の家にもほとんど居着かない。そのくせ霊力だけは抜きん出て強く、厄介事と見れば進んで首を突っ込みたがる性格で、高尚に言わせれば迷惑生産機以外のなにものでもなかった。勝手に人のところに面倒な話を持ち込んでおきながら自分はぐうたらと昼寝している雅春を容赦なく蹴り出してやったことも、一度や二度ではない。
 そしてそのときも、雅春はまるでいつも通りの調子で高尚に言ったのだ。
「高尚、俺を封印の器に使ってくれ」
 後に“斑鳩の鬼神”と呼ばれることになる妖怪。荒れ狂うその強大な力を、鏡見と長月の一族が総出になっても簡単には止められないとわかったとき、雅春は自らそう申し出た。
 いつもとまるで変わらない、飄々とした軽い口調で。
「なまぬるいやり方では、あれは到底止められん。依り代を使うなら、俺以上の適任はいないだろう」
「本気で言っているのか」
「失礼な、俺は何事においても常に本気かつ大真面目だぞ」
「そうだったな。おまえは阿呆なこともいちいち本気でやる阿呆だった」
「褒めるなよ、照れるだろ」
「勝手に照れていろ、阿呆が」
 人柱の必要性は、放っておいてもじきに誰かが言い出すだろう。そして、そうなったとき真っ先に白羽の矢が立つのは、間違いなく雅春だ。
 雅春は言った。
「こんなことになったのは、俺にも責任がある」
 だから、この斑鳩の地が滅んでしまう前に。
「やってくれるだろう、高尚。おまえになら任せられる」
「そう言って、おまえが何度私に厄介事を押しつけてきたと思っている?」
「はは、それはすまんな。これが最後の厄介事だ」
 他に方法がないことは高尚にもわかっていた。迷う時間も、ゆっくりと感傷に浸る暇も、彼らには残されていなかった。
 引き受けよう、と高尚は答えた。

 そうして、鏡見雅春の身体と魂を封印の器として、“斑鳩の鬼神”は封じられた。
 そしてそれは、鏡見の血が逃れられない宿命を背負う始まりでもあったのだ。


          *

 遥はひとりぽつんと、広い座敷に座っていた。
 夕暮れが迫り、部屋の中は薄暗い。しかし、電気をつける気にもならなければ、隣にいるユラに話しかける言葉も出てこなかった。
 あれからすぐに鏡見家に駆けつけ、司の様子を少しだけ見させてもらった。その後、遥はすぐに司の寝かされている部屋を出され、今は大人たちの話し合いが終わるのを待っている。
 一見したところ、司は高熱にうなされているように見えた。むしろ、何も知らない普通の人間であればそうとしか見えないだろう。しかし、遥の目には見えてしまった。わかってしまった。司を覆う禍々しい気。それが、司の内側から今にも殻を破って溢れ出さんばかりになっている鬼神の力だということが。
「……ありゃヤバイな」
 ぼそりとユラがつぶやく。
「どうにも毛皮がピリピリしやがる。いつ暴走が始まってもおかしくない。そうなれば司は……」
「やめて!」
 思わず悲鳴のようにユラの言葉を遮ったとき、廊下に続く襖が開いた。
 入って来たのは彰宏と、司の父であり鏡見家の現当主である聡だった。一緒に来ていたはずの千紗子ではなく、なぜ聡が遥のところに来るのだろう。嫌な予感に、どくんと心臓が跳ねる。
「話し合いは終わったんですか? それで、司は……」
「遥ちゃん、よく聞きなさい」聡の声は静かで落ち着いていた。「司には、“御印の子”として最も重い役目を果たしてもらうことになった。今回の鬼神の力の暴走は簡単に止められるものではない。このまま司を新たな人柱として封じ、鬼神の封印を補強する」
 遥は唖然として聡の顔を見つめた。言われた意味がわからなかったのではない。理解したからこそ、すぐには何の反応もできなかったのだ。
「……なんで」
 ようやく喉から出てきた声は、自分のものではないかのようにかすれていた。
「どうして、そんな」
 だって、ここにみんないるのに。彰宏も聡も強い力を持った術者だ。結界の守り人を代々務めてきた御影家もいる。それぞれの家に連なる術者たちも次々と駆けつけてきている。それなのに、どうしてそんな、司を見捨てるような結論が出されなければならないのか。
「巻物から文字が消えていただろう、遥」
 そう言って説明したのは彰宏だった。あの巻物から抜け落ちていたのは長月高尚が書き残した呪文のひとつで、“御印の子”の中の鬼神の力を抑える効果を持つものだった。しかし、その呪文は使い方によっては、力を抑えるだけでなく引き出すことも可能なのだと。
「じゃあ、今のこの状態は……」
「おそらく、巻物を盗んだ妖怪が文字ごと呪文を抜き取り、それを使って司くんに干渉しているのだろう。文字には高尚本人の霊力が宿っていた。そのせいで、呪文がより強く作用している」
「……!」
 不知火の声が耳の内に蘇る。もう用は済んだから。それはハッタリでも何でもなく、呪文を奪った後の巻物など、本当に用無しだったのだ。
「でも、だったら不知火さんから呪文を取り戻せば……」
 聡が静かに首を振った。
「今からその隠れ上手な妖怪を探していては時間がかかりすぎる。それに、通常であればこの程度のことで封印が破れるところまではいかないはずが、どうやら司の異変に封印が同調し始めているらしい。封印そのものも、そろそろ補強が必要な時期にきているようなんだ。危険を回避するためには、いっそこの機に司を新たな人柱として術をかけ直したほうがいい」
「そんな、でも……なんとかならないんですか? だってそんなの、結局、司は死ぬってことじゃないですか! 他に方法はないんですか? 何か他に……」
 死ぬ、という言葉を口に出してしまった途端に、どうしようもなく恐ろしくなる。そうだ、このままでは司は死んでしまう。鏡見雅春と同じように封印の器にされて、もう二度と会えなくなる。
「おまえはよく頑張った、遥。先に帰っていなさい」
 宥めるような彰宏の言葉も、半分も耳に入ってこない。せめてもう一度司に会わせてほしいと頼んだがそれも聞き入れてもらえず、ユラに半ば引っ立てられるようにして遥は部屋を出た。
 重い足取りで玄関を出ようとしたとき、「遥ちゃん」と後ろから声をかけられた。振り返ると、奥から小柄な女性が出てきたところだった。
「ごめんなさいね、こんなことになってしまって。遥ちゃんにも、ずっと司を守ってもらっていたのに……」
「冬子さん……」
 冬子は司の母だ。穏やかで、よく笑う、料理の上手な人で、遥も小さい頃からなついていた。
「今日はゆっくり休んでね。こちらのことは、何も心配しなくていいから」
 こちらのこと、というのは、鬼神の封印のことだろう。司のことではなく。
 笑顔を作っていても、気丈に振る舞っているように見えても、無理をしているのは一目でわかる。今、誰よりもつらい思いをしているはずの人に、遥の口から一体どんな言葉を返せるだろう。
 遥はただ深く頭を下げると、唇を噛みしめて鏡見家を後にした。


 ひとりきりの家の中は、たとえ明かりがついていても暗くて静かだ。
 マキさんは遥たちが巻物探しをしている間に目を覚まし、大事を取って今日は休んでもらうことになったらしい。その呉服店のほうも、司のことで連絡が来たときに閉めてしまったから、本当に誰もいない。傍らにいるのは一匹、黒い羽の生えた小さな使い魔だけ。
「ねえ、ユラ……どうしていきなりこんなことになるの? 今朝まではいつも通りだったのに」
「知らねえよ。そういうもんだろ。事故でも妖怪でも、出くわすときはいきなりだ」
 答えるユラの声は低い。
「でも、不知火さんはずっと近くにいた!」
「それを今さら言ってどうする。気づけなかったのは事実だ。おまえもオレもな」
 なあ遥、とユラはひとりごとのように言った。
「昔はな、生まれてきた子供が“御印の子”だってわかった時点ですぐに殺してたこともあったんだ」
「……なにそれ」
「妖怪に殺されたり、今回みたいな問題が起きると厄介なことになる。だからできるだけ早いうちに、封印に余計な影響を及ぼさないよう厳密な儀式に則って危険な火種にはご退場いただいてたんだよ。まあ、これはごく一時期の、しかも極端な例だが」
「……だから何? 十七年も生きられたんだから司は幸せだって言いたいの?」
「そうじゃねえ。腹括れって話だ。“御印の子”のいる時代に居合わせた連中には、守る覚悟だけじゃなく、必要なときには切り捨てる覚悟も必要なんだ。おまえだって、聡の奴が好きこのんで司を新しい人柱にするなんて思ってるわけじゃねえだろうが」
 遥は唇を噛んだ。わかっている。そんなことはわかっている。
「私は、覚悟がないから追い出されたの?」
「迷いのある奴が近くにいても危険なだけだ。確か裕哉の奴も儀式の人員からは弾かれてたはずだ。まあ、そうでなくともおまえらなんざまだ半人前もいいところだからな。……くそっ、こっちに戻ってきてもまだ毛皮がピリピリしてやがる。毛が抜けてきたりしたらどうすんだ」
「抜けたらハゲるんじゃない?」
「そりゃそうだが、つまりオレが言いたいのはハゲたらどうしてくれんだって話で……って、おい、遥! どこ行くつもりだ!」
 立ち上がって歩き出した遥は、振り返らないまま「不知火さんのところ」と答えた。
「迷いがあって半人前で戦力外ならそれでいい。別に儀式の邪魔をするわけじゃないし、その間に私が何をしようと勝手でしょ? 不知火さんに、呪文を返してもらってくる」
 スタスタと廊下を歩く遥の後を、「おい待て、阿呆かおまえは!」とユラが慌てて追ってくる。
「貸したマンガを返してもらいに行くのとはわけが違うんだぞ。第一、居所だってわからねえだろうが!」
「そうだけど、あの洋館に戻ってる可能性だってゼロじゃない」
 外はもう、すっかり日が暮れている。弓を手に玄関を出ると、生ぬるい風が頬を撫でた。
 まずはあの洋館に行く。そこに不知火がいなければ探す。司を助けるには、人柱の儀式が終わるよりも早く呪文を取り戻すしかない。
(急がないと……!)
 焦る気持ちに引きずられるようにして駆け出す。洋館のあったあの森までは距離がある。ゆっくり歩いているような時間はない。
「……ったく、しょうがねえな。付き合ってやるよ」
 やれやれと言いたげな声とともに左肩の重みが増す。足を止めないままちらりと目をやると、いつもの小さな姿のままのユラがちゃっかり肩に乗っていた。
「来てくれるのは嬉しいんだけど……ユラ、なにげに楽してない?」
「気のせいだ」
 走りながらそんなことを言い合っていると、後ろからバイクの音が近づいてきた。かなり飛ばしているらしく、音はあっという間に背後に迫ってくる。そして、ライトの光が一瞬で遥を追い越したと思うと、黒っぽいバイクが道をふさぐようにして急停止した。
「おまえがおとなしくしてるはずがないと思って様子を見に来たら、案の上だ。こんな時間にお出かけか? 遥」
「裕哉!」
 バイクから降りないままヘルメットを取ってそう言ったのは裕哉だった。
「どうしたの? それ、裕哉のお父さんのバイクじゃなかった?」
「ちょっと拝借してきたんだよ。俺の原付じゃたいしてスピードが出ねえからな。大丈夫だ、免許は持ってる。で、おまえは何してんだ。まさかこんなときにジョギングってわけじゃねえんだろ?」
 裕哉の視線は鋭い。遥はその目をまっすぐに見返して答えた。
「不知火さんに取られた呪文を返してもらいに行くの」
「居場所の心当たりはあるのか」
「可能性は低いけど、ひとつだけ」
「なるほどな。わかった、乗れ」
 予想外の言葉に遥が思わず「え?」と聞き返すと、裕哉は苛立ったように手に持っていたヘルメットを投げて寄越した。
「俺だってこんなのは納得がいかねえんだよ。せめて俺たちふたりくらい、あいつのために足掻いてみたっていいだろ。わかったらさっさと道案内しろ。おまえの足でちんたら走るよりこっちのほうが早い」
「でも私、ヘルメット持ってない」
「だからそれ被ればいいだろうが。ちょっとでかいのはガマンしろ」
「裕哉は?」
「俺の華麗な運転技術の前にそんなものは必要ねえ!」
 そういう問題ではなく道路交通法違反の問題なのだが、この際、遥もそこには目をつぶることにした。遥たちにとっては、今はそれよりも急ぐことのほうが重要だ。「馬鹿が二匹」とユラが呆れた口調でつぶやく。
 受け取ったヘルメットを被って裕哉の後ろに乗る。エンジンが高く唸りを上げ、ふたりを乗せたバイクは勢いよく夜の道を走り出した。


「……雨だ」
 先に気づいたのはヘルメットを被っていない裕哉のほうだった。よく聞き取れずに「何?」と聞き返した遥に、「雨が降ってきやがった!」と声を大きくして答える。
「夜でしかも雨とはまた面倒なこったな。おい、遥、道はこれでいいんだろうな?」
「大丈夫。森に入ったら、あとは一本道だから」
 ほどなく、ライトの照らす先に一軒の洋館が姿を現した。あれだ。
「二階の窓に明かりがついてるな。まさか本当に戻ってやがるとは」
 なめられたもんだ、とユラがつぶやく。
 バイクが停止するかしないかのうちに、遥はヘルメットをむしり取るようにして飛び降りた。そのまま駆け出そうとしたところを、「待て、遥」という裕哉の声が止める。
「お出迎えだ。麻夕ちゃんに取り次ぎでもしてくれるんじゃねえのか?」
 エンジンを切った裕哉がくいと顎で示した先。二階のバルコニーに、部屋の明かりを背にして何かが出てきたところだった。
「これはこれは、長月と御影の。使い魔までお連れになって、こんな晩にまで妖怪退治でございますか」
 慇懃だが、どことなく人を不快にさせる卑屈な口調。背は低く、柵の間から小鬼のようなシルエットがのぞいている。
「その声……おまえ、窺鬼だな」
 唸るように言ったのはユラだ。「窺鬼?」と遥が聞き返す。
「窺鬼ってあの、妖怪新聞の?」
 妖怪新聞を発行している変わり者の妖怪のことなら、遥も知っている。鏡見家での何かの集まりの際に直接見たこともあった。
「おいおい、鏡見の家に出入してる情報屋が何を間違えたらこんなところにいやがるんだ。裏切りモンかてめえ、ああ?」
 裕哉が今にも殴りかからんばかりの表情でバルコニーを睨む。彼に一足で二階の高さにまで跳躍する能力があれば、間違いなくそうしていただろう。
 そこへ軽やかに澄んだ声が割って入った。
「あら、裏切り者はあんまりじゃない? 御影先輩。情報屋は、相手が誰であれ情報を売るのが仕事でしょう? これは利に聡いから、私をあなたたちより上の客と判断した。それだけのことよ」
 部屋の中から出てきたのは不知火だ。雨に濡れるのも気にしていない様子で手すりに肘をつき、悠然と微笑む。
「今日は賑やかで嬉しいわ。また来てくれたのね、遥ちゃん。今度は御影先輩まで」
「ふん、俺がこいつらの同類だってこともとっくにお見通しだったって感じだな。麻夕ちゃんの前で呪符を使った覚えはねえんだけど」
「先輩の霊力にもちゃんと気づいてたってことよ。嬉しくない?」
「残念ながら、司を殺す気満々の妖怪に言われてもちっとも嬉しかねえな。マジでもう、俺のときめきを返してくれって感じ」
「それはご期待にそえなくてごめんなさい」
「呪文を返して!」
 ふたりのやりとりを遮るようにして叫んだのは遥だった。その手にはすでに霊力の矢をつがえた弓が構えられている。
「巻物から奪った呪文。今もそれで司の中から鬼神の力を引きずり出そうとしてるんでしょう? そんなことさせない。返してもらうわ!」
「やだ、遥ちゃんってば。それって何の冗談?」不知火の目が嘲笑うように細められる。「そんなもので脅しているつもりなのかしら」
 答える代わりに遥は矢を放った。
 鋭い光が宙を駆ける。避ける様子もなくバルコニーに立ったままの不知火を射貫くかと思われた矢は、しかし、その直前で破裂するように四散した。
「な……!」
「小娘、今度こそその喉笛を食いちぎってやる!」
 遥の肩から跳んだユラがそのまま大きな獣の姿になり、一度地面を蹴って咆哮を上げながらバルコニーへ跳躍する。
「いいわ。司くんが死ぬまでの退屈しのぎに少し遊んであげる」
 不知火がスッと片手を伸ばす。まるでユラの牙の前に自ら腕を差し出すような仕草だったが、次の瞬間、その手から強烈な妖気が迸り、ユラを弾き飛ばした。
「ユラ!」
 かろうじて着地したユラに駆け寄ろうとした遥の前に、ヌッと黒いものが立ち上がる。窓明かりを受けてぬらりと光るそれは膜のように伸び上がって遥を取り込もうとしたが、間一髪のところで裕哉が叩きつけた呪符によって吹き飛ばされた。
「気ィ抜くな、遥!」
「ごめん、ありがとう裕哉」
 そこへ再び不知火の声が降ってくる。
「ねえ、もっと本気を出してかかっていらっしゃいよ。その程度じゃちっとも楽しくないわ」
「フン、昼間とは違っていやに自信満々だな」
 ユラが吐き捨てるようにつぶやく。しかし、実際のところ、不知火は強かった。次々と攻撃を仕掛けても、かすり傷ひとつ負わせることができない。遥の矢はことごとく弾かれ、ユラの牙も爪も軽々と躱される。
「ねえ、さっきから攻撃は遥ちゃんとユラちゃんばっかりなんだけど、ひょっとして御影先輩は守り以外のことはできないのかしら?」
「うるせえな、人にはそれぞれ専門ってもんがあんだよ!」
 ときおり繰り出される不知火の攻撃を防ぐ以外に特に活躍のなかった裕哉が、小馬鹿にするような不知火の言葉にややキレ気味で怒鳴り返した。
「けどなぁ、麻夕ちゃん。余裕ぶっこいて男ナメてっと痛い目に遭うぜ!」
 続けて裕哉が唱えた呪文とともに、不知火の足元がカッと鋭く光る。
「ユラが馬鹿正直にしつこく飛びかかってただけだと思うなよ。これが連携プレーってやつだ」
 発動したのは捕縛の結界だ。パン、と裕哉が両手を打ち鳴らしたのを合図に、不知火を取り囲んだ光の檻が急速に収縮する。
 だが、不知火はまったく動じなかった。
「ふうん。御影先輩って、意外と姑息」
 言いながら、片手を鋭く振り下ろす。それだけで捕縛の結界は呆気なく破壊され、霧散した。
「おい、マジかよ。今のは俺の渾身の術だぞ……!?」
 どんだけ霊力込めたと思ってんだ、破るにしてもせめてもうちょっと苦労しろ! と、ややピントの外れた憤慨の仕方をしている裕哉に、遥は「ねえ、裕哉」と声をかけた。
「何か妙じゃない? 感覚がいつもと違うっていうか、鈍くなってるような気がするんだけど……」
 荒くなった呼吸を整えながら言う。先程からどうも霊力の安定が悪いのだ。矢にうまく力が集中せず、そのくせやたらと体力を消耗する。矢を射た数だけでいえばユラの特訓のときよりもよほど少ないのに、弓を引く腕がすでにだるくなってきている。
「ああ? まあ、言われてみればそんな気もするが……いや、待て。何だ? この雨」
 振り返った裕哉が不意に眉をひそめた。自分の手とそこに握っていた呪符を見つめ、次いで遥とユラにも順に視線を向ける。
「……どうなってんだ? いつから雨が黒くなった?」
「黒い?」
 遥も驚いて自分を見下ろした。確かに、服も腕もいつの間にか黒っぽく汚れている。手からしたたり落ちる水滴は、二階から漏れてくる光にかざすと墨汁を混ぜた水のような色をしていた。降り出したときからこうだったのか、それとも途中で変わったのか。暗いせいでまったく気づかなかった。
「そうよ、この雨」
 楽しそうに言ったのは不知火だ。
「この雨は、漏れ出した鬼神の力が混じったもの。人間を憎み自由を求める、鬼神の怨念そのもの。この雨が私たち妖怪の力を強め、人間の術者の力を弱めてくれるの」
 歌うように言いながら、両の手のひらを上に向け、そこに雨を受ける。
「そう、これよ。鬼神の力。私はこれが欲しかったの」
 手に受けた黒い水を啜る不知火の目が奇妙な光を帯びていく。見る者をぞっとさせるような、底光りする不吉な輝き。
「ああ、これでは足りない。もっと、もっと力が欲しい。もうすぐよ。もうすぐ、鬼神の力がすべて私のものになる……!」
 不知火の妖力がみるみるうちに膨れ上がっていくのがわかる。遥はざわりと肌が粟立つのを感じた。今までどんな妖怪と対峙したときにも、こんな恐怖を感じたことはない。いけない。不知火をこのままにしておいてはいけない。今すぐ殺さなければ大変なことになる。
「鬼神の力は、あなたなんかには使わせない……!」
 重い腕に力を込め、もう一度弓を引く。かき集めた霊力が輝く矢となって夜の闇の中に浮かび上がる。
 だが、その渾身の一撃も呆気なく弾かれた。不知火の放った力は矢をかき消しただけでなく、それを放った遥まで吹き飛ばした。背後の木に叩きつけられ、衝撃に一瞬、気が遠くなる。
 ユラの攻撃も裕哉の呪符も、まるで歯が立たなかった。圧倒的な力を振るう不知火の前に、なすすべなく叩き伏せられていく。
「無駄でございますよ。この雨は、呪文を操っておられる不知火様にこそもっとも強く作用するのです。あなたがたに選択肢があるとすれば、あくまで無駄な抵抗を続けて殺されるか、命乞いして不知火様の僕となるか、ふたつにひとつでしょうな」
 耳障りな窺鬼の声。「あら、命乞いなんてダメよ」と不知火が笑う。
「そんなのはつまらないわ。もし遥ちゃんが命乞いなんかしたら、私、失望しちゃう。やっぱり、絶望に顔を歪めて、苦しみながら死んでいってもらわなくちゃ」
 不知火がバルコニーの手すりを乗り越え、ふわりと地面に降り立った。黒い雨によってひときわ濃くなった闇の中で、今やその姿そのものが淡い光を放っている。同じ雨にさらされているにも関わらず、その肌も服も、まったく汚れていない。
 不知火はまず、傷を負って倒れているユラに軽やかな足取りで近づくと、黒い雨で薄汚れたその顔をのぞき込んだ。
「使い魔なんて哀れなものね。長く人間の霊力に縛られ続けてきたせいで、この雨の恩恵を受けるどころか、人間と同じように弱ってしまうなんて」
 しかし、不知火はすぐにユラにとどめを刺そうとはせず、赤い唇に指を当てて少し考え込む様子を見せた。そして、気を変えたように「そうだ」とつぶやく。
「ねえ、おまえを解放してあげましょうか。おまえを縛っている長月の血がすべて絶えれば、おまえは自由な妖怪に戻れる。そうよ、せっかくだもの、それがいいわ。そして恩義ある私に忠誠を尽くしなさい」
「忠誠……?」
 つぶやいたのは遥だった。顔を上げ、不知火を睨みつける。
「そんなものの、何が解放よ……!」
「だって、仕方ないでしょう?」振り返った不知火は悠然と微笑んだ。「私はもうすぐ鬼神の力を手に入れて、この国の妖怪を統べる王になるのだもの。妖怪が妖怪の王に仕えるのは当然のことだわ」
 不知火は遥の前にやってくると、獲物を前にした獣のように目を細めた。
「さようなら、遥ちゃん。あなたのこと嫌いじゃなかったわよ。嫌うまでもないくらい馬鹿な小娘だったから。じきに司くんも送ってあげるから、あの世で会ったらよろしく伝えておいて」
 白く細い指が伸びてきて、遥の頭をわしづかみにする。そのすさまじい力に、遥は思わず悲鳴を上げた。痛い。骨が軋む。爪先が地面を離れる。遥、と誰かが呼ぶ声が聞こえるが、それがユラなのか裕哉なのかもわからない。
 異変が起こったのはそのときだった。
 唐突に膨れ上がる邪悪な力。夜の森を揺さぶる、憎悪に満ちた咆哮。不知火が吹き飛ばされ、濡れた地面の上に叩きつけられた。
「え……?」
 そこにいたのは、見上げるように巨大な妖怪だった。ざわめく黒い毛並み。歪んだような奇妙な翼。爛々と光る、見開かれたふたつの眼。
 その妖怪は激しい叫び声を上げ、立ち上がろうとした不知火を呆気なく踏みつぶした。身の毛のよだつような断末魔の叫びに、何かが潰れるような、ぐしゃりと湿った音が続く。
 遥も裕哉も、とっさに何が起こったのかわからなかった。狂ったように吠え続ける巨大な影を見上げ、遥は信じられない思いでつぶやいた。
「ユラ……?」





戻る | 目次 | 進む
TOP

Copyright (C) PinkNokko's All Rights Reserved.