] 斑鳩の空 第七話

斑鳩の空



第七話 ラブレター


 封印の塚は市街地から離れた山の中にある。かつて鏡見と長月の一族は斑鳩の地を襲った鬼神をこの山に誘い込み、封じることに成功した。彼らはさらにその場所を石組みで覆い隠し、強力な結界で入り口を閉ざした。隠されたその入り口を知り、開くことができるのは、彼らの血を受け継いだ術者たちだけだ。
 そして今、ふたつの血に連なる者たちが再びこの場所に足を踏み入れていた。鏡見と長月、そして鬼神の封印後に鏡見から分離した御影。この三家の当主を筆頭としたごく限られた者だけが、塚の内部に立ち入ることを許されている。
 塚の内部は、小さな入り口から想像するより広い。壁の四隅には呪術による篝火が焚かれ、地面には大きな陣が浮かび上がっている。彼らはその陣を取り囲むようにして並び、新たな封印の儀式を執り行っていた。
 彼らの唱える呪文に合わせて脈打つように明滅する呪術陣の中心には、細長い石棺のようなものが置かれている。蓋や側面にも隙間なく呪文が彫り込まれた石棺――そう、これこそが封印の本体だ。鬼神の依り代となった鏡見雅春の肉体がこの中に納められている。
 それだけならば、千年の昔、雅春が封じられたときの光景とさほど違いはなかっただろう。ただひとつ、かつての封印の儀式と明らかに異なっているのは、陣のすぐ横に半ば重なるようにして小さな陣がもうひとつ描かれ、そこにひとりの少年が横たえられているという点だった。少年は石棺にこそ納められていないものの、その身体は呪力の鎖で何重にも縛られ、地面に縫い止められている。
 少年――鏡見司を新たな人柱として封印を補強するための儀式は難航していた。すでに漏れ出し始めていた鬼神の力の抵抗が激しく、なかなか術が安定しないのだ。
「……まずい」
 不意に小さくつぶやいたのは彰宏だった。
 足元からかすかな振動が伝わってくる。それはやがて小刻みな揺れになり、塚を覆う結界が音を立てて軋み始めた。
「まさか」
 かすれた声で聡が呻く。次の瞬間、聡は「伏せろ!」と声を張り上げた。
 鋭い音とともに石棺に亀裂が入り、吹き出した妖気がすさまじい勢いで塚の天井を吹き飛ばす。
 黒い雲に覆われた空の下、激しい轟音が大地を揺るがした。


 その衝撃と地響きは、遥たちのいる森にも届いた。
 夜の森から、鳥たちが一斉にけたたましい鳴き声を上げて飛び立つ。とっさに身を竦ませた遥と裕哉も、すぐに何事かと顔を上げた。
「何だ? 今のは、まさか……」
 衝撃の発生源と思われる方角を振り返った裕哉がつぶやく。同時に、巨大化して不知火を踏み潰したユラもゆっくりと同じ方向へ首をめぐらせ、巨大な翼を広げて飛び立った。その姿はすでに元のユラとは大きくかけ離れ、醜悪な怪物のようになりつつある。
「待って、ユラ! 一体どうしちゃったの!? どこに行くつもりなの……!?」
 遥の必死の呼びかけも、狂ったような咆哮にかき消されてしまう。
 わけがわからなかった。ユラのあんな姿は今まで見たことがない。黒い雨で力を削がれ、不知火に殺されかけていたはずのユラに、一体何が起こったというのか。
 低く舌打ちした裕哉がバイクに飛び乗った。エンジンをかけながら、「乗れ、行くぞ!」と遥に呼びかける。
「ねえ裕哉、一体どうなってるの? ユラはおかしくなっちゃったの? どうしてユラがあんな……」
「落ち着け、遥!」
 混乱しきった遥を、裕哉は鋭く叱りつけた。
「いいか、今目の前で起こってることをしっかり見ろ。あれがユラだってことを考えずにこの光景だけを見たら、あの化け物じみた妖怪は一体何に見える? 俺には、儀式が間に合わずに復活した鬼神か、少なくともその一部に見える。現に、あいつが向かってるのは封印の塚がある方向だ。あいつがいきなり化け物になったのとさっきの地響きと、まったくの無関係だとは思えねえ」
 遥は唇を噛んだ。裕哉の言葉はもっともだ。今のユラからは恐ろしい邪悪な気配しか感じられない。遠ざかっていく後ろ姿も、巻物に描かれていた鬼神の姿を彷彿とさせる。
「でも……だとしたら……じゃあ、封印の儀式は? 司は? 失敗したの? だからユラはあんなふうになっちゃったの……!?」
「んなこと俺だってわかんねえよ。だからそれを確かめに行くんだろうが!」
 さっさと乗れ、と急かす裕哉の声に背中を押され、ようやく遥もバイクにまたがる。
 暗い山道にエンジン音を響かせて猛然と駆け抜けていく間も、遥は裕哉の背中にしがみついたまま「ねえ、どうして? どうしてユラが鬼神なの……!?」とつぶやき続けていた。


 低く垂れ込めた黒雲が空を覆い尽くしている。雨はすでにやみつつあったが、月も星もない、闇の澱んだ暗い夜だった。
 吹き飛んだ封印の塚の上に、大きな黒い影がゆっくりと降り立つ。荒れ狂う妖気を吸収し、その姿はさらに巨大化し、醜く膨れ上がっていく。鋭い爪を持つ獣の四肢と、長くのたうつ蛇の尾。奇妙に歪んだ翼が風を起こし、錆びたような軋んだ音を立てる。
 上空には不穏な力の気配に惹かれた下級の妖怪たちが群れて集まり始めていた。しかし、天を揺るがすような激しい咆哮が轟くと、あるいは吹き飛ばされ、あるいは恐れをなして散り散りに逃げ出していく。
 渦巻く妖気に山の木々がざわめき、大地が鳴動する。
 長い沈黙の年月を経て、今まさに“斑鳩の鬼神”が復活しようとしていた。


「これが“斑鳩の鬼神”……!」
 頭上を仰ぎ、聡は呆然とつぶやいた。“斑鳩の鬼神”そのものについては、鏡見の家にも長月の家にも、あまり多くは語り継がれていない。突如としてこの地に現れた、強大な力とおぞましい姿を持つ妖怪であったとだけ伝えられ、巻物に残された姿絵もそれほど精密ではなく、その姿や性質についてはほとんどわかっていなかったのだ。
「なんて妖気だ……! 完全に復活したら確実に俺たちの手には負えなくなるぞ」
 唸るように言ったのは彰宏だ。塚の天井と壁が跡形もなく消し飛ぶほどの衝撃に、さすがの彼らといえどもまったくの無事というわけにはいかなかった。その場にいた全員が何かしら傷を負い、彰宏のこめかみにも血がつたっている。
「捕縛の陣を敷く! 動ける者はすぐに取りかかってくれ。待機している術者たちにも急ぎ招集を!」
 聡の言葉に、我に返った一族の者たちが慌ただしく動き出す。しかし、そこに「待って!」という言葉が響いた。
 ヘッドライトが闇を切り裂き、一台のバイクが突っ込んでくる。半回転しながら急停止したバイクから転がり落ちるようにして飛び降りてきたのは遥だった。
「待って! あれはユラなの!」
 振り返った彰宏が驚いたように目を見張る。
「遥、おまえは家にいたはずじゃ……いや、それよりも、ユラ? あれがユラだって?」
「全部話すと長くなるんだけど、でも、あれは確かにユラなの。ユラがああなったの。ねえ、ユラがそうなの? 斑鳩の鬼神なの? ユラを元に戻すにはどうしたらいいの!?」
 すがりつくような遥の言葉に、他の者たちの間から「あれがあの使い魔?」「しかし、なぜ長月の家の使い魔が……」という戸惑ったつぶやきが漏れる。
 一方、裕哉は裕哉で、今や完全に剥き出しになった封印の陣に駆け寄ると、儀式の途中で意識がないままになっている司を思いきり蹴飛ばした。司を陣に縛り付けていた霊力の鎖が鈍い光を放って砕け散る。
「おい、裕哉! 何をしとるんだ!」
 慌てて怒鳴ったのは裕哉の祖父だ。御影家の長であり、三家の中で最も封じの術に優れた人物であり、裕哉にとっては呪術の師でもあるのだが、裕哉は遠慮のかけらもなく「うっせえ、ジジイ!」と怒鳴り返した。
「どう見ても儀式は失敗してんだし、どうせもう半分壊れてたじゃねえか。おい、司! いつまでも優雅に寝てんじゃねえよ! 起きて手伝え、あの馬鹿使い魔をなんとかしなきゃならねえんだよ! つーかまだ生きてんだろうな、おまえは!」
 ガクガクと揺さぶられ、かすかなうめき声を上げて司がうっすらと目を開く。
「裕哉……? ここは……一体、何が起こって……」
「どうもこうも、もうちょっとでおまえが新しい人柱にされるところだったんだよ。ところがどっこい、その儀式の途中で、まさかの鬼神様のお目覚めだ。しかも、聞いて驚くなよ。その鬼神の正体は、なんとユラだ」
 裕哉が指し示した黒い影を見上げ、司は「ユラ……あれが……?」とつぶやいた。
 荒れ狂う妖気の嵐の中で、もはや完全に異形となり果てたユラが叫び続けている。おぞましいその咆哮は、なぜか、どこか苦しんでいるようにも聞こえた。


 ユラがいつ、どんな経緯で長月家の使い魔となったのか。長月高尚に調伏されて仕えるようになったのが始まりだと長月家には伝わっているし、ユラ自身もそう語っている。しかし、それは必ずしも事実のすべてではなかった。
 ユラはかつて、鏡見雅春の使い魔だった。
 人に退治され、死にかけていたところを雅春に拾われた。もともと、落とし物だろうが厄介事の種だろうが、道に転がっているものは何でも面白がって拾ってくるような男だった。己の力で調伏し忠誠を誓わせたわけでもない妖怪を拾ってくるなどどうかしている、と高尚などは呆れ返ったものだが、ユラと名付けられたその妖怪は、お世辞にも従順とは言えないものの、それなりに雅春と絆を深めていった。どこぞで怪異があったと聞けば首を突っ込みに行く雅春のお供をし、雅春や高尚とともに凶暴な妖怪を退治することも少なくなかった。
 妖怪たちとの戦いを重ねることによって、ユラはどんどん強くなっていった。そして、強くなりすぎた。
 雅春によって元々持っていた高い能力を引き出され、そこに倒した妖怪から取り込んだ妖力が加わり、その力は、いつの間にかユラの限界を超えていたのだ。そしてあるとき、とうとうユラは我を忘れて暴走した。
 暴れ狂うユラを穏便に鎮めることは、もはや主である雅春にも不可能だった。そして行われた封印の儀式。雅春が進んで人柱となったのは、“鬼神”と化したのが己の使い魔だったからだ。高尚が雅春の提案を受け入れたのも、それがユラだったからこそ、自分たちの手で何とかしたい、しなければならないと思ったからだった。
 封印は成功し、後には残り滓のようになった無力で小さなユラが残された。記憶も力も失ったユラをその場で殺してしまうのは簡単だった。当然、万全を期すためにもそうするべきだと鏡見と長月の一族の者たちは主張した。しかし、高尚の懸命な説得により、残されたユラは長月家で監視するという名目で引き取ることになった。
 こうしてユラは長月家の使い魔となり、長い時間のうちに、ユラが鬼神の一部であることは忘れられていったのだ。


 頭の中に流れ込んでくるのは、ユラの記憶か、それともこの土地に刻み込まれた過去の情景か。
「そうだったんだ……高尚がユラを……」
 遥はつぶやきながら頭上を仰いだ。叫び続ける、おぞましく巨大な妖怪。けれど、あれは悲鳴なのだ。大きすぎる力に自我を飲み込まれ、苦しみもがいているだけなのだ。
「ユラ、お願い。元に戻って。目を覚まして。お願い……!」
 黒い雨と不知火との戦いのせいで、遥の霊力はもうほとんど残っていない。それでも遥は弓を構え、ありったけの霊力をかき集めた。
 攻撃なんて、本当はしたくない。矢を向けたりしたくない。けれど、今ユラを止めなければ大変なことになる。止められずに街に被害が出たりしたら、ユラは本当に“邪悪な鬼神”になってしまう。
 物心ついた頃から、ユラはいつも遥の側にいた。何でも言い合えて、様々なことを教えられ、怒られて、ときには守られて、たくさんの時間をともに過ごしてきた。少し口が悪く、喧嘩したことだって一度や二度ではない。遥にとってユラは使い魔と言うより、家族であり、師であり、頼もしいパートナーでもある、そんな存在だった。
(邪悪なものなんかじゃない)
 ユラはずっと、遥を、長月家を、ひいてはともに戦う鏡見家をも、支え続けてきてくれたのだ。
 退治しようとしたのも、拾って使い魔にしたのも、その挙げ句に暴走させてしまったのも、すべて人間の勝手だ。
(鬼神を倒すなんて偉そうなことを言う資格は、私たちにはない。止めて、助けなきゃいけないんだ。私たちが、ユラを……!)
 しかし、どれだけ矢を射かけても、ユラはまったく反応しない。攻撃を受けていることにすら気づいていないように見える。
「正気に戻って、ユラ! お願いだから!」
「やめろ、遥。無理だ。おまえのだけじゃなく、どの攻撃もまるで効いてない」
 さらに弓を引こうとした遥を止めたのは司だった。意識すらなかった夕方ほどではないものの、まだ呼吸は荒く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。鬼神の妖力を押さえつけていた封印が破れたことで司にかかる圧力も幾分かは軽減されたはずだが、その力の影響から完全に逃れることは、やはりできないらしい。
「司……」
 遥は司を見つめ、きつく唇を噛んだ。無事だった。苦しそうにはしているが、ちゃんと生きている。立って、歩いて、遥を見ている。それがこんな状況でなければ、ユラがこんなことになってしまってさえいなければ、手放しで喜ぶことができたのに。
「まずい……ぐずぐずしてると東軍や西軍の妖怪どもも騒ぎに気づいて動き出すぞ。さっきユラが散らしたのは雑魚ばかりだったが、力の強い連中が集まり始めると厄介なことになる」
 彰宏が焦りをにじませて空を仰ぐ。
「もう一度同じ儀式を!」聡が振り返って叫んだ。「かつて長月高尚が行ったのと同じ儀式を行う。ユラを鎮められる方法があるとすればそれだけだ」
「やはり人柱は必要というわけか……」
 裕哉の祖父がつぶやき、皆の視線が一斉に司に集中する。その様子を見ながら、聡はさらに言葉を続けた。
「先程の補強の儀式の失敗でかかった負担もある。司ひとりでは新たな人柱として力が足りない可能性が高い。だが、ふたり使えばなんとかなるだろう」
「ふたりって……おい、聡くん、まさか……」
「そのまさかだ。他に誰がいる?」
 普段あまり笑うことのない聡が、そう言ってかすかに笑ってみせる。
 それはつまり、司と聡のふたりが人柱になるという意味だ。
「なんだよそれ、ふざけんなよ。俺は司だけでも納得がいかねえってのに、なんでさらに人数が増えてんだよ……!」
 呻くように言ったのは裕哉だが、気持ちは遥も同じだ。
「司」
 聡が息子の名前を呼ぶ。司は一瞬、かすかに身体を強張らせたが、すぐにしっかりと顔を上げ、「はい」と返事をしてそちらに足を向けた。
「司!」
 遥は思わず司の腕を掴んだ。足を止めた司が振り返る。
「大丈夫だ。心配するな」
「大丈夫って、何が大丈夫だっていうの!? 人柱になるのに心配も何もないじゃない! どうしてこんな……本当に、他に方法はないの……!?」
「あったなら、そもそも鏡見雅春と長月高尚がこんな方法を取ったか?」
「そうだけど……でも……!」
「俺、ずっと意識が朦朧としててよく覚えてないんだけど、すでに一回、人柱にされかけたんだろ? なら、最後にこうやってもう一度おまえらに会えただけもうけもんだと思わないとな」
 苦しげな息の下、司はそう言って小さく笑う。
「それに、ずっと守られてることしかできなかった俺が、今度は守るための役目を果たせるんだ。そう考えれば、そんなに悪くもない。まあ、欲を言えば人柱は俺ひとりでやりたいところだけど、親父のあの顔を見る限り、そういうわけにもいかないんだろうな」
「司……」
「大丈夫だ、ちゃんとユラの暴走は止めてやるから。――じゃあな、遥」
 まるでいつも通りの口調で言い置いて、今度こそ司は歩き出す。「ああクソッ!」と裕哉が叫んだ。
「結局こうなるのかよ! 畜生、おいジジイ、その人柱の儀式とかいうのはどういう術式になるんだ。俺にも手伝わせろ!」
「やれるのか、裕哉」祖父の問いに、
「うっせえよ、やるっつってんだろ! 司と聡さんが腹括ってんだ。俺だけ逃げてられるか!」
 叩きつけるように怒鳴り返す。その乱暴な口調は、むしろ自分自身を叱咤しているようでもあった。
(どうしよう……)
 司も裕哉も、次々に決断していく。立ちすくんでいるのは遥だけだ。
(どうにもならないの? 本当に?)
 できることは何もないのか。司と聡をこのまま見送るしかないのか。本当に、これしか方法はないというのか。
 焦る気持ちを抑えようときつく手を握りしめたとき、遥はふと何かに呼ばれたような気がして顔を上げた。破壊された封印の塚――そこで、一瞬何かが光を放ったように見えた。
 考えるより先に駆け出していた。わずかに消え残った封印の陣の残骸と、かろうじて原型を留めている石棺。蓋の崩れ落ちた箇所から中をのぞき込んだ遥は、そこで小さく息を飲んだ。
 石棺の底は青白い水のような光で満たされ、その中にひとりの人物が横たわっていた。身を包む古風な衣装。張りのある肌。閉じられた目と、少し硬そうな髪。少しも腐敗することなく、おそらくは、人柱として封じられたその瞬間のままの姿で。
「鏡見雅春……この人が……」
 そして、棺の中には雅春とともに一本の笛が納められていた。よく使い込まれた、シンプルな横笛だ。遥や紫が持っているものとよく似ている。
「笛……さっき光ったのはこれ……?」  遥の脳裏を、小さな頃から慣れ親しんできたメロディがよぎる。長月家の子供たちには必ず教えられる古い曲。遥がこの曲を吹くと、ユラは必ずヘタクソだと言ってけなした。そのくせ、いつだって気がつけば隣で眠っているのだ。ぐっすりと、気持ちよさそうに。
 確信があったわけではない。だが、遥はとっさにその笛を手に取っていた。弓を置いて立ち上がり、夜空よりなお黒い巨大な影を見上げて笛に息を吹き込む。笛は壊れているということもなく、きちんと鳴った。いっそ場違いなほどにゆるやかな旋律があたりに響き始める。
 遥の唐突な行動に、その場にいた全員が驚いて振り返った。
「何やってんだ遥! そんなことしてる場合じゃねえだろう!」
 怒鳴ったのは裕哉だ。遥は構わずに吹き続けた。しかし、何も起こらない。一度は驚きながらもかすかな期待を込めてユラを見上げた皆の顔に失望の表情が浮かぶ。やはり駄目なのか。この曲に意味などないのか。絶望的な気持ちになりながら、それでも遥は、他にどうすることもできずにひたすら同じ旋律を奏で続けた。
 そのとき、耳元で声がした。
「なつかしい曲だ」
 振り返った遥は、驚きに目を見開いた。そこには、棺の中に横たわっていたのと同じ鏡見雅春の姿があった。違うのは、こちらは背後が半分透けて見えるという点だ。
「雅春……さん……?」
「……その笛にも雅春の霊力が宿ってる。おまえが息を吹き込んだことで雅春の霊が目覚めたんだ」
 そう言ったのは司だった。何かに引っ張られるように遥の横にやってきて、息切れしながら石棺の縁に手をつく。
 苦しそうな司に、幽霊らしい雅春は飄々と手を挙げて挨拶した。
「やあ、我が子孫。ずいぶんひ弱そうだな」
「なんか、あんたが出てきた瞬間に俺にかかる負荷が増えた気がするんだけど。いろんなことが頭の中に流れ込んでくるし、なんだよこれ?」
「ふむ、突然の俺の出現に動じないのはさすがだな」
「そりゃどうも。動じてる余裕がないんでね」
「俺とおまえは、血とユラの力の両方を介して、お互い影響し合ってる状態だ。俺が自由に動く分、おまえの負担も多少増えるし、思考の一部も共有される。まあ、一心同体ってことでしばらく我慢しろ」
 にやりと笑う雅春に、「千年も眠ってたくせに滑らかな舌だな」と司がぼやく。
 雅春は「さて」と暴走するユラを見上げてから、遥に視線を戻した。
「そっちは、見たところ高尚の血筋か。……そうか、その曲も高尚が受け継いでくれていたんだな」
「あ、あの、この曲……私たち、由来は何も知らなくて。ひょっとして、これも元々は……」
 唖然としていた遥がようやく我に返って尋ねると、雅春は「そうだ」とうなずいた。
「俺がいつもユラに聴かせていた曲だ。あいつが眠っている横でよく吹いていた。そのせいだろう、いつの間にか、あいつの気が昂ぶったときに聴かせると落ち着くようになっていた」
 言いながら、雅春は遥の後ろから腕を回し、もう一度笛を構えさせる。
「やってごらん。私が力を貸そう。あのときは効かなかったが、今のユラはまだ鬼神として覚醒しきっていない。この音がうまく届けば、暴走した力を抑えることができるだろう」
「……はい!」
 遥はもう一度唇に笛を当てると、まっすぐにユラを見つめて同じ曲を吹き始めた。雅春の力に助けられながら、吹き込む息に、流れ出す音色に、精一杯の想いと霊力を乗せて。
 笛の音は、先程よりもずっと強く、ずっと澄んだ音色となって、荒れ狂う夜の底に響き渡った。
 聡や彰宏たちも、今は固唾を呑んでその様子を見守っている。
「大丈夫、いつものように吹けばいい。ユラが知っているきみの音色で」
 必死に吹き続ける遥の耳元に、励ますように雅春がささやきかける。
 しかし、単に力添えをしているにしては、妙に遥と雅春の距離が近い。司もしばらくは黙って見守っていたが、雅春がやたらと「そうだ」「いいぞ」などと言いながら遥にべたべたと密着しているのを見かねて、とうとう後ろから手を伸ばした。
「……おい、ご先祖。それじゃ逆に遥が集中できないだろうが。ちょっと離れろ」
「おっ、霊体の俺を素手でつかむとは、さすがは我が子孫。いやしかし、後ろから襟首掴んで引っ張られたら俺も苦しいだろうが」
「なんで霊体が苦しいんだよ。息してないだろ」
「気分だ、気分」
 雅春はそこでふとニヤリと笑うと、司だけに聞こえるように耳打ちした。
「この子は美人になるぞ。他にとられないよう、今のうちからしっかりつかまえておくんだな」
「は? 何言ってんだ、俺はべつに……」
「言い訳はいらんぞ、若人よ。おまえの考えも半分は俺に筒抜けだからな」
 ふたりがそんなやりとりをしている間も、遥はひたすら笛を吹き続けていた。紡がれていく旋律が目に見えるような気がするほどに意識を凝らし、同じ曲を奏で続ける。
 やがて、笛に小さな亀裂が入り始めた。雅春と遥のふたり分の霊力を流し込まれ、負荷がかかりすぎているのだ。
(お願い、もう少しだけ保って。この音がユラに届くまで……!)
 笛の音をかき消すように響くユラの咆哮。それを押し返すように、遥は持てる力のすべてを息に込めた。


 その音は、闇の底にかすかな光が射すように、ユラの意識の底に触れた。
 かろうじて、まだかすかに消え残っていた“ユラ”としての意識。そこに、よく知っているゆるやかな旋律が落ちてくる。名前を呼ぶ声のように。乾きを癒す雫のように。
 ――ああ、なつかしい曲だ。
 もう思い出せないほどの昔から、繰り返し繰り返し、聴いてきた曲だ。
「このヘタクソな音は、遥だな……」
 浅いまどろみの中で、ユラは笛の音色に身をゆだねる。
 淡い光が闇を払い、ユラの意識を包んだ。


 ユラの咆哮が途切れ、吹き荒れていた風が凶暴さを失う。
 溢れ出した光の中で、遥たちは雅春の声を聞いた。
「もうしばらく、これは私ひとりで封じていよう。鏡見と長月の血を継ぐ者たちよ、儀式をもってこの身を今一度封じ直せ。そして、どうか探してくれ。いつか、人柱など必要でなくなる方法を」
 その言葉が終わるとともに、遥の手の中の笛が砕け散る。
 まばゆい光が収まったとき、そこにはもう雅春の霊も、巨大な妖怪の姿もなく、地面に倒れている小さなユラだけが残されていた。


 一瞬の茫然自失から立ち直ると、大人たちは慌ただしく動き始めた。封印のかけ直しと結界の再構築。今回は何とかユラを鎮めることができたが、次に同じことが起こったらどうなるかわからない。今後のユラの処遇や、本格的な儀式を執り行って塚を修復する段取りなどについて、できるだけ早く鏡見と長月の一族を集めて取り決める必要がある。
 交わされるそんな言葉を聞きながら、遥はそっとユラを抱き上げた。
「……生きてるか?」
 隣に並んだ司が尋ねる。
「うん、大丈夫。眠ってるだけみたい」
「そうか」
 それならよかった、とつぶやいて、司はくしゃくしゃと髪を掻き回した。
「まったく、とんでもない一日だったな。俺は死にかけるし、ユラは鬼神だし、鏡見雅春は出てくるし、その雅春はイマイチつかみ所のないオッサンだったし」
「雅春さん? そうだった?」
「ああ……おまえは笛で手一杯だったからな。まあ、知らなくていいと思うぞ。イメージが壊れる」
「そう言われると逆に気になるんだけど……。でも、とにかく、司もユラも無事で、本当によかった」
 最後は噛みしめるようにつぶやき、そっとユラの背中を撫でる。
「……あのさ、遥」
「何?」
 顔を上げると、司は少しためらう素振りを見せてから、思い切ったように口を開いた。
「俺、おまえのことが好きだよ」
「……え?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。遥はポカンとして司を見上げたが、やがてじわじわと言葉の意味が飲み込めてくると、かあっと頬が熱くなった。
「い、いきなり何言って……ていうか、そういうこと、このタイミングで言う!?」
「今じゃなかったらいつ言うんだよ」
 司は少しふてくされたように言ってから、小さく息をついて遥の腕の中のユラに手を伸ばした。
「俺の中で鬼神の力が……まあ、ユラの力だったわけだけど、とにかくそれが暴走して意識が朦朧としてたときさ、おまえのことばっかり頭に浮かんできたんだ。なんか最近、不知火さんのこととかあって、いろいろこじれたままで……なんでもっとちゃんと話をしとかなかったんだろうって、すげえ後悔して」
 だから、と司は言う。
「今、ちゃんと言っておく。遥のことがずっと好きだった」
「司……」
「たぶん、ユラのことも、この残った部分も今度こそ殺しておくべきだって意見が、絶対に出ると思う。そうしたら、今度は俺たちがユラを守ろう。長月高尚がそうしたみたいに。俺、ユラのことも好きだし」
「うん……そうだね。私も、ユラを守りたい」
 そう言って遥がうなずいたとき、すぐ後ろから別の声が割って入ってきた。
「おい、司。その流れだと、遥とユラに対する好きが同列みたいに聞こえるぞ。いいのかよ」
「裕哉! 聞いてたの!?」
「だっておまえら、俺が声かけようとした途端にいい雰囲気の話始めちまうんだもん。いいよなーおまえらは両思いでー。俺なんか麻夕ちゃんに裏切られて傷心の真っ最中だっつーのに。あ、違うか。司的に遥とユラは同列だもんな」
「まあ、そうだな」
 あっさりうなずく司を、「え!?」と遥が振り返る。
「ちょっ……ちょっと待って、今のってそういう意味だったの? 確かに私もユラのことは大事だけど、それとこれはまた別っていうか、私は司が……ああもう何それ最悪! バカ! 司なんか二度と助けない!」
「冗談だよ、冗談。おまえは特別」
「司のバカ! もう知らないっ!」
 真っ赤になった遥が叫び、「あーあ、フラれてやんの」と裕哉が笑う。
「ところでおまえら、知ってる? 今日ってもう月曜なんだぜ」
「あ……」
 言われて顔を上げると、雲の吹き払われた空は、いつの間にかうっすらと明るくなり始めていた。夜が明けようとしているのだ。
「学校はサボって、今日は一日爆睡するほうに一票」
「……賛成」
 司と遥がほぼ同時にうなずく。  頭上で交わされるそんなやりとりに、遥に抱かれたユラが少しだけ目を開き、そしてまたすぐに眠りに落ちた。



END

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