魔王の棲む国



1.運命の朝


「おまえは十六歳になったとき、贄として捧げられるさだめ。国のため、どうかこらえて受け入れておくれ」
「そのようなものはただの迷信。何も心配することはない。おまえがこの美しい国を離れる必要などないのだから」

 ファレリアは、相反するふたつの言葉を聞いて育った。

 このイルヴィーナ公国にはひとつの古い言い伝えがある。王家の姫が十六の歳を迎えると、魔王が現れ、姫を連れ去っていくという。歴史書は黙して語らない。もともと、女児に恵まれない王家ではある。しかし、まるで意図的に隠されてでもいるように王女に関する記録は少なく、その伝承もわずかな語り部たちがひそやかに伝えるのみ。ファレリアの曾祖父の頃にもひとりの姫がいたというが、確かなのは十六歳で亡くなったとされていることだけ。誰もが口を濁し、真実は語られないまま忘れ去られようとしている。
「姫さま……ファレリアさま」
 小さな声がして、遠慮がちに寝室の扉が開けられる。小さな文机に蝋燭を一本だけ灯していたファレリアが顔を上げると、燭台を手にした侍女のリエルがそっと顔をのぞかせていた。
「すみません。明かりが漏れていたので、まだ起きていらっしゃるのかと思って。……眠れないのですか?」
 心配そうに尋ねるリエルに、ファレリアは小さく微笑んで見せた。
「ずっと起きていたわけではないの。ただ、眠ったつもりでもすぐに目が覚めてしまって……。リエルこそ、きちんと眠らなくてはだめよ」
「わたしは、夜更かしではなく早起きです。もう夜明けのほうが近いのですよ。リンデンセンの星がずいぶん西に傾いていますから」
 そう言うリエルもほとんど眠っていないことをファレリアは知っていた。彼女も不安なのだ。この夜が明けて、明日がやってくることが。
「……オルランドさまからのお手紙ですか?」
「ええ。読んでいると、気持ちが落ち着くの」
 ファレリアは机の上に広げていた手紙に目を落とすと、そこに綴られている文字を細い指先でそっとなぞった。オルランドは“エルドラの騎士”の称号を持つファレリアの恋人だ。
「明日にはオルランドさまも城にお着きになられます。大丈夫ですよ、恐ろしいことなど何も起こりません」
「そうね。ありがとう、リエル。きっとそうだわ」
 愛しい人からの手紙を胸に抱き、祈るようにファレリアはつぶやく。本当にそうであったらどんなにいいだろう。今夜の静けさは、まるで城中が喪に服してでもいるようだ。窓辺に差し込む淡い星明かりだけが、ただただいつもと変わらずに美しい。
 ファレリアは明日、十六歳の誕生日を迎える。
 王家の娘として生まれたファレリアは、イルヴィーナの民に愛され、優しく美しく成長した。やがて歳の離れた弟も生まれ、騎士オルランドと出会って恋をし、その未来には一遍の曇りもないように思われていた。ただひとつ、語り継がれる不吉な伝説を除いては。
 鐘の音が鳴り響いたのは、眠れぬままに夜が過ぎ、やがて夜明けを迎えようかという頃のことだった。
 幾重にもこだまし、まるで天を揺るがすように響き渡る、重い重い鐘の音。
「この鐘は……?」
 ファレリアはびくりと身を震わせ、思わず立ち上がった。こんな時間に鳴る鐘はないはずだ。リエルもさっと青ざめたが、すぐに「外にお出でになってはなりません、姫様」と窓辺に近寄ろうとしていたファレリアを引き留めた。
 外では鐘が鳴り続けている。
 鳴っている鐘はひとつだけではなかった。城の大鐘楼で、街の小さな教会で、国中のありとあらゆる場所で、すべての鐘が見えない手によって打ち鳴らされ、まだ目覚めきらない国を静寂の底から揺り起こす。
「声が……」
 ファレリアを腕の中に庇ったまま、ふとリエルがつぶやく。ファレリアも顔を上げて耳を澄ました。確かに何か聞こえる。
 ……ォオオ……オオ……
   ……オオ……オオォ、オオ……
「叫び声……?」
 重なり合う鐘の響きに混じる、嵐の中の獣の咆哮のような声。
 やがてその叫びの中から、地の底から鳴り響くような声が轟いた。
  ……ォオオ(捧げよ)……オオ……
   ……オオ……オオオオ(我が元に姫を捧げよ)……

 ――我は魔王 イルヴィーナの民よ 姫を捧げよ さもなくば国は劫火の中に消え去るであろう

 夜明け前から働き出していた勤勉な村人も、まだ眠りの中にいた街の人々も、すべてのイルヴィーナの民が目を覚まし、凍り付いたように動きを止め、その声を聞いた。
 叫び声は次第に遠くなり、ひとつ、またひとつと鐘も鳴り止んでいく。そして、すべての音が途切れた次の瞬間、城の大鐘楼が見えない巨大な手に握りつぶされたかのように突然崩れ落ちた。
 激しい轟音と振動が収まったとき、城の建つ丘を見上げた人々の目に映ったのは、血のような不吉な朝焼けと、まだかすかな土煙を上げ、一部が瓦礫と化した無残な城の姿だった。


 何事もなければファレリア姫の誕生日を祝って盛大な式典が催されるはずだったこの日、陽も昇りきらないうちに城の使用人たちが命じられたのは、姫を贄として送り出す準備を整えることだった。王は魔王の要求に従い、姫を差し出すことに決めたのだ。
 贄の行列が整うのを待つ間、白いドレスに身を包んだファレリアは部屋のバルコニーにひとりたたずんでいた。
(恐れてはだめ)
 胸に手を押し当てて、何度も自分自身に言い聞かせる。
(本当は恐ろしい。できることなら逃げ出したい。けれど、私が逃げたらこの国は魔王に滅ぼされてしまう。お父様の判断は正しい。私を愛してくれたイルヴィーナの民を、私を育んでくれた緑の大地を、どうして見捨てることができようか。王女として、私は勇敢にこの役目を受け入れねばならない)
 大鐘楼の崩壊に巻き込まれ、すでに城の下働きの者が何人か犠牲になっている。ファレリアは使用人とも親しく言葉を交わす王女だったから、その中には彼女の知っている者もいた。これ以上の犠牲を許してはいけない。魔王が欲しているのは、ファレリアただひとりなのだから。
「ああ、けれど……オルランド様。せめて、最後に一目あなたにお会いできたらよかったのに……」
 きつく閉ざしたファレリアの目から、透き通った水晶のような涙が一粒こぼれ落ちた。
 そのとき、慣れ親しんだ声がファレリアを呼んだ。振り返ると、リエルがひざまずいてファレリアを見つめている。
「姫様……」
「ああ、リエル。ごめんなさい、違うのよ。怯えているわけではないの。……もう出発の時間かしら」
 目元に残る涙をぬぐって気丈に微笑むファレリアを、リエルはしばらくじっと見つめていたが、やがて意を決したようにその手を取って言った。
「姫様、わたくしが姫様の代わりに参ります」
「リエル? 何を言って……」
「わたくしが姫様の身代わりとなり、贄の役目をお引き受けいたします。その間に、どうか姫様はお逃げください」
「ああ、リエル……だめよ、そんなことは許されない。あなたを犠牲になどできないわ」
 ファレリアは首を振った。確かにリエルとファレリアは歳も同じで、背格好も似通っている。そして何より、互いをよく知っている。顔さえ見られなければ、入れ替わることは不可能ではないだろう。けれどこれは遊びや悪戯ではない。王女として魔王の元へ赴けば、おそらくは二度と生きては帰ってこられないのだ。
 しかし、リエルは頑なだった。
「わたしは、行き場のない孤児であったところを王妃様に拾われ、姫様のお側にお仕えする身となりました。礼儀も知らない荒んだ子供であったわたしを、姫様は嫌うどころか、優しく受け入れてくださった。それからの日々が、わたしにとってどれほど代え難く、幸せなものであったか……。王妃様と姫様がいらっしゃらなければ、わたしはとうに野垂れ死んでいたか、生きていたとしてもろくな人間にはなっていなかったでしょう。どうかこのご恩を返させてください。姫様はわたしの生きる希望であり、理由なのです。このままお行かせすることなど、とてもできません」
 ファレリアはなんとかリエルを諭そうとしたが、幼い頃からともに育った親友でもある侍女の決意は固く、最後にはとうとう押し切られるようにしてファレリアは彼女の申し出を受け入れてしまった。
 ファレリアがうなずいてしまったのは、もちろんリエルが強固に望んだからだ。けれど、本当に最後の一押しをしたのは、ファレリア自身の恐怖心だった。どうしても抑えることのできない、贄となる運命を恐れる心が、最後の最後でリエルの申し出を拒む決意を鈍らせてしまったのだ。
 ファレリアを説得すると、すぐにリエルは城中に「姫様は悲しみのあまりお声を失われてしまいました」と触れて回った。こうしておけば、魔王が棲むとされる北の山までの道中、すり替わったリエルがひと言も口を利かなくても怪しまれないからだ。
 そうして、魔王に捧げる贄の行列は城を発った。王女の衣装に身を包み、深くヴェールを被ったリエルを連れて。
 護衛の騎士たちに守られて北の山へ向かう姫君の姿を、人々は言葉もなく、ただ涙とともに見送った。そして、国中が姫のために祈りを捧げた。





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