魔王の棲む国



2.力を求める者


 北の魔の山は常に深い霧に閉ざされている。騎士たちの同行が許されたのは山の麓まで。彼らは馬を下り、最敬礼をもって霧の中に消えていく彼らの王女を見送った。
 リエルはたったひとりで馬を駆り、険しい山道を進んだ。騎士たちといたときにはただ同じ場所をぐるぐると回ることしかできなかった山が、今、リエルには道を開いている。魔王が王女を呼んでいるのだ。捧げられる供物のためだけに開かれた道。
「魔王よ、おまえが何者で、どれほどの力を持っているのか、わたしは知らない。けれど、たとえおまえがどれだけ強大であろうとも、わたしはおまえを恐れない。たとえおまえが贄を引き裂いて喰らうつもりであるのだとしても、わたしはおまえを恐れない。おまえのようなものに、わたしのファレリア様を決して渡しはしない」
 毅然と顔を上げ、やがてリエルは終着点に辿り着いたことを知った。霧の途切れたその場所は高い崖の上だった。振り返れば、戻る道はたちまち濃い霧に閉ざされて見えなくなる。ここが生贄の祭壇というわけだ。
「魔王よ!」
 リエルは凛と声を張り上げた。
「わたしは来た。イルヴィーナはおまえの望むまま、ここに王女ファレリアを捧げた! 姿を現せ、霧の底に棲む邪悪なるものよ!」
 そのとき。
 霧の中から伸びてきた巨大な黒い手がリエルを鷲掴みにした。「ああ!」身体中の骨が軋む痛みに、リエルは思わず悲鳴を上げる。
 高く持ち上げられたリエルが見たのは、醜く盛り上がった肩と角の生えたいびつな頭、そして底光りする血のように赤いふたつの眼だった。
「……チ、ガウ」
 低く轟くおぞましい声。
「チガウ……違う! おまえは我が姫ではない。この程度の偽りで我を謀れると思ったか、愚かなイルヴィーナの民め!」
 握りしめられた黒い手の中で、小枝がいくつか折れるようなかすかな音がする。そしてその指が開かれると、もはや人の形ではなくなった奇妙な赤黒い塊が粘ついた飛沫をまき散らして地面に転がり落ちた。
 怒りに満ちた咆哮が魔の山中に響き渡り、山を去ろうとしていた騎士たちは恐ろしさに身を震わせながら城への道を引き返して行った。


 オルランドが城に到着したのは、王女が魔王の元へ送り出されたその日の夕刻のことだった。
 姫の恋人であった若い騎士の姿を見つけると、ある者は黙って彼の肩を叩き、ある者は静かに頭を垂れ、そして多くの者が姫の気高さを讃える言葉を口にした。
 旅装も解かないままの騎士を迎えた国王は、ひどくやつれた、疲れ切った顔をしていた。
「許してくれ、オルランド。私には他にどうすることもできなかったのだ」
「たとえ軍勢を差し向けようと、魔王を倒すことはかないますまい。陛下は国を守られたのです。姫もそのことはわかっておいでだったでしょう」
「そう言ってくれるか。そなたにもファレリアにも、むごいことをした……」
 オルランドはただ黙って頭を下げた。そしてすぐに顔を上げると、まっすぐに国王を見つめた。
「本日はお願いしたいことがあり、陛下をお訪ねしました」
「聞こう。私にできることならば」
「陛下より賜りました“エルドラの騎士”の称号を、今この場でお返ししたく存じます」
 騎士のその言葉に広間がざわついた。“エルドラの騎士”はこの国で最も名誉ある称号。誰もがそれを得たいと願いこそすれ、返上することなど夢にも思わないものだ。国王も驚いた表情で、この若く誠実な騎士を見つめた。
「……それは、そなたは我が国を見限ったのだと、そういうことなのだろうか?」
「いいえ、逆にございます、陛下。このイルヴィーナに、わたくしを切り捨てていただきたいのです」
 国王は束の間、その言葉の意味を推し量るように黙り込み、それからハッと息を飲んだ。
「オルランド、まさかそなた……」
「陛下は一兵たりと動かしてはなりませぬ。我が身はこれより、主君も身分も持たぬ流浪の身。逆らったのがただひとりの流れ者であれば、魔王もそれをイルヴィーナの罪とすることはできますまい」
 いっそ穏やかでさえある口調と表情。けれど、オルランドの瞳には揺るぎない意志の輝きがある。
「……もっとも、それも魔王に理が通用するならばの話ですが。イルヴィーナを危険にさらすかもしれない私の我が儘を、どうぞお許しください」
 国王はしばらくの間、ひと言も発しなかった。やがて、長い沈黙の末に絞り出すように口を開いた。
「……そなたの行為は国への反逆である。よって、そなたに与えた“エルドラの騎士”の称号、ならびにそれに伴うすべての名誉と権利を、今をもって剥奪する」
 微かに震える声が国王の想いをすべて物語っていた。王は受け入れたのだ。愛しい娘だけでなく、その伴侶となるはずだった青年までをも失うことを。
 オルランドは深く深く頭を下げると、毅然ときびすを返して歩き出した。広間を出る直前、ふと足を止めて振り返る。
「……もしも私と姫が戻りましたら、そのときは、もう一度この国に迎え入れていただけるでしょうか」
「約束しよう、オルランドよ」
 オルランドは微笑むと、今度こそ振り返らずに城を出た。
 空にはすでに夜の帳が降り、東の空に月が静かに昇りつつある。オルランドは愛馬に飛び乗ると、月明かりに照らされた道を北へ向かって走り出した。


 もちろん、オルランドはすぐさま北の魔の山へ向かったわけではない。いかに彼がすぐれた騎士であろうと、所詮は非力な人間であることに変わりはない。国王が軍勢をもって対抗することを諦めた相手、国中の鐘を打ち鳴らし、城の大鐘楼を一瞬にして粉々に砕いてみせた魔王を、自分ひとりでどうにかできると思うほどオルランドはうぬぼれてはいなかったし、悲壮感に酔って無意味な死を選ぶつもりも毛頭なかった。愛しいファレリアを救うためであれば死を恐れはしない。しかしそれは、打つべき手を打った上でのことだ。
 イルヴィーナの国の外れには古い森があり、そこには魔女が住んでいると言われている。オルランドが最初に目指したのはこの森だった。
 森は深く暗かった。怯える馬を宥め、オルランドは道なき道を奥へ奥へと進んでいく。そしてようやく、細い煙の立ち上る一軒の小さな家を見つけ出した。
 小屋の中は暗く、様々な薬草が混じり合った奇妙な匂いがしていた。炉には火が焚かれ、その前に背中の曲がった小柄な老婆が座っている。
「おまえがここに来た理由はわかっている。エルドラの騎士よ」
 深く被った頭巾で顔の半ばを覆った魔女は、低くしわがれた声でそう言った。オルランドは片膝をつき、真摯な眼差しで魔女を見上げる。
「私はもう、エルドラの騎士ではありません」
「ほう……」
 フードの奥で魔女がかすかに眼を細める気配がした。
「騎士の身分を捨てたか……。しかし、結局は同じこと。おまえはエルドラの騎士。魔王を倒さんと望む者」
 そのつぶやきは低く、ほとんど聞き取れなかったが、オルランドは鋭い眼光が自分に注がれるのを感じた。
「騎士よ、おまえは何を求めるか」
 試すような問い。オルランドは短く、はっきりと答えた。
「力を」
 魔女はうっすらと笑った。目の前の騎士を蔑むようでもあり、哀れむようでもある、ひどく陰鬱な笑いだった。
「ならば、おまえの求めるものはそこにある。己の手でつかみ取ってみせるがいい」
 節くれ立った長い指が、赤々と燃える炉の炎を指し示す。
 オルランドは躊躇わなかった。わずかに目を細めて炎を見つめ、迷いのない動作でその中に右手を差し入れる。
 炎に舐められた指が、不意に固くひんやりとしたものに触れた。パッと火の粉が散り、脅すように膨れ上がった炎の熱がオルランドの顔を叩いたが、騎士の名を捨てた若者は怯むことなくそれをつかみ取り、炎の中から引き抜いた。
「これは……」
 炎の中から現れたのは、一振りの剣だった。何の装飾も施されていない、柄も鞘も黒い長剣。焼けたり焦げたりした痕跡はひとつもなく、それを掴むオルランドの手もまた、火傷ひとつ負っていなかった。
「それは呪われた剣。魔王を倒すことのできる唯一の武器」
 鞘を払うと、まるで闇そのものを凝縮して鍛え上げたかのような刀身が現れる。炎にかざしてもまったく光を宿さない、深い深い闇の色だ。
「この剣を得る対価は」
「支払うべきは、剣の対価ではなく、力の対価だ。それは、おまえがその剣を振るうごとに、おまえ自身の身をもって支払うことになるだろう。おまえは力を得る代償に剣の呪いを受ける。それでもその力を使いたければ、使うがよい」
「感謝します、古き森の魔女よ」
 このまま姫を失うことを思えば、呪いなど恐ろしくはなかった。再び鞘に収めた剣を携え、オルランドは今度こそ北の山を目指した。


 荒れ果てた山に魔王の咆哮が響く。霧はわななき乱れ、オルランドを惑わすことはできなかった。
「何を啼く、邪悪なるものよ」
 空を覆う霧を透かすようにしてオルランドはつぶやいた。山中に響き渡るその恐ろしい声が、なぜかオルランドには泣いているようにも聞こえたのだ。深い嘆きと怒り。魔王よ、イルヴィーナから心優しき姫を奪ったおまえは、一体何を求めてそれほどまでに嘆くのか。
「終わらせてやろう、その苦しみを」
 そして、とうとうオルランドは見つけた。深く裂けた谷間にうずくまる、巨大な醜い影を。
  ……オオ……ォオオオオオ……
 あの運命の朝に聞いたのと同じ、地の底から幾重にも響く声。
  ……オオ(死に絶えよ……)……オオオ(愚かなるイルヴィーナよ……)……
   ……ォオオオオオ……(劫火の中に屍をさらし、罪を購うがいい……)!
 呻きの中に混じる呪詛の言葉。
「魔王よ!」
 オルランドは馬を下り、昂然と顔を上げて呼びかけた。
「我が名はオルランド。姫を返していただこう。あの方はおまえのものではないのだ!」
 放たれたその言葉に、一瞬、唸り声が途切れる。そして、束の間の静寂の後、奇妙に音程の狂った哄笑が響き渡った。
「……返して欲しいか。ならばくれてやろう、愚かなイルヴィーナの騎士よ」
 ひび割れたおぞましい声とともに、オルランドの目の前に何かが降ってきた。いやに湿った音が地面を叩く。飛び散った赤い滴がオルランドの頬にも跳ねた。
「……姫?」
 潰れた頭。血に染まった髪。もはや原型も留めない肉塊の中から、おかしな方向に曲がった細い手首が突き出している。
「……ファレリア姫?」
 オルランドはひざまずき、唯一潰されずに残っていたその手に触れた。
 触れればいつもあたたかかったファレリアの優しい手。今やその手は血にまみれ、無残に折れ曲がり、ぬくもりも、オルランドの手を握り返してくれる力もない。あの微笑みも、あの眼差しも、すべてこの哀れな残骸の中に埋もれ、失われてしまったのだ。
「なぜだ……」
 つぶやく声は震えていた。激しい怒りと嘆きがオルランドの全身を震わせる。
「魔王よ、おまえは姫を欲したのではなかったのか。おまえはただ……」
 それ以上はもはや言葉にならない。オルランドは立ち上がり、腰の剣を引き抜いた。闇のたぎる禍々しい刀身に、脈打つように青白い光が走る。
「おまえを倒しても姫は戻らぬ。おまえを永劫の闇に葬り去ったところで、姫を失った我が心は癒えぬ。だが、おまえをこのままにしておくことはできない。たとえ命に代えても、魔王よ、おまえは私がこの手で葬る」
 静かな表情の中で、魔王を見据える両の瞳だけが苛烈な光を放っている。彼を知る者が見れば、これがあの穏やかで誠実なオルランドなのかと目を疑ったことだろう。
「愚かな……愚かなエルドラの騎士よ……イルヴィーナは滅ぶがいい……今こそ報いを受けるがいい……!」
「姫を殺し、その上イルヴィーナを滅ぼすと言うか。やってみるがいい。その前に私を殺すことができればの話だが」
 再び剣が脈打ち、烈しい光を放つ。
 そして、魔王と騎士の熾烈な戦いが始まった。





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