魔王の棲む国



3.魔王と姫君


 ファレリアがその噂を聞いたのは、国の外れに近い小さな村までやってきたときだった。
 あの日、自分の身代わりにリエルを送り出してしまったことを、ファレリアは深く悔やんでいた。贄の列を見送り、ひそかに身を隠した彼女を待っていたのは、恐ろしい運命から逃れた安堵ではなく、大切な友人をその暗く恐ろしい道へ突き落としてしまったことへの後悔と恐怖だけだった。リエルが魔王のもとへ送られる。リエルが殺されてしまう。そう考えることは、自分自身が贄になる運命に思いを馳せることよりはるかに恐ろしかった。
(このままではいけない)
 その思いに突き動かされ、ファレリアはたったひとり、北の魔の山を目指した。
(リエルを行かせてしまったのは間違いだった。あのようなことをしてはならなかった。魔王に捧げられるのはわたしでなければならない。誰も犠牲にしてはならなかったのに!)
 騙されていたことを知れば、魔王はファレリアを許さないだろう。そもそも、なぜ魔王が王女を欲するのか、何のための贄なのか、ファレリアは知らない。だから、どうすれば魔王の怒りを解くことができるかもわからない。けれど、それでも行かねばならないのだ。行って、リエルだけは救わなければならない。リエルに罪はないのだから。魔王を謀った罪は、それを許したファレリアにこそあるのだから。
 そして、その道中で、ファレリアはその話を聞いたのだ。
「……エルドラの騎士様が……」
「おひとりで魔王のもとへ……」
「騎士の名を捨て……姫様のために……」
 すれ違った村人たちの交わしていた言葉が、ファレリアの耳に突き刺さった。思わず振り返り、人目を避けていたことも忘れてその男たちに駆け寄る。
「どういうことですか? オルランド様……エルドラの騎士様がどうしたというのです?」
 突然割って入ってきた若い娘に戸惑うようにしながらも、彼らは都から伝わってきた噂だと言って、騎士オルランドが王女を救い出すために魔王のもとへ向かったことを教えてくれた。
「きっと、姫様もエルドラの騎士様も生きては戻るまい……」
 深いため息とともに村人はつぶやいた。
「ああ、なんということ……!」
 ファレリアは震える声で叫んだ。愛しい人が自分のために命を懸けようとしてくれている。けれど、それは間違いなのだ。ファレリアはここにいる。たとえオルランドが命を賭しても魔王の力には敵わない。必ず殺されてしまう。リエルも、オルランドも。
 このままでは間に合わない。そう思ったファレリアは、とっさに村人たちにすがりついた。
「お願いです、どうかオルランド様を止めてください! わたしはここにいます。ファレリアはここにいるのです! わたしがこれから魔王の元へ参ります。だからどうか、オルランド様に思いとどまってくださるよう……魔王にリエルを傷つけずにいてくれるよう、どうか伝えて。手を貸してください。お願いです、どうか……!」
 必死に言いながら、フードを跳ね上げて顔をさらす。村人たちは驚いたようにその美しい顔を見つめたが、ふと我に返ったようにファレリアの手を振り払って叫んだ。
「黙れ、おまえが姫様であるものか! 姫様はお声を失い、それでも我らのために魔王のもとへ行かれたのだ。喋っているおまえが姫様のはずがない!」
「違うのです。それはリエルが……わたくしたちは入れ替わって……」
「黙れ、黙れ。俺たちは騙されんぞ。悪魔が姫様のお姿を使って俺たちを惑わそうとしている。立ち去れ、汚らわしい悪魔め!」
 ファレリアは逃げ出した。逃げるしかなかった。それ以上留まっても、話を聞いてもらえるどころか、袋叩きにされて立ち上がることもできなくなっていただろう。
 逃げる途中で靴も片方なくしてしまった。そうでなくとも、ファレリアの白い足はもう、潰れたマメやたくさんの傷でいっぱいだった。こんなにも遠く城を離れて歩き続けたことなど、今まで一度だってなかったのだ。  靴が片方だけではかえって歩きにくい。いっそ残った靴も脱ぎ捨てて、ファレリアは歩き続けた。気がつけば、涙があふれて次から次へと頬をつたっていた。
「泣いてはだめ。泣いてはだめ。すべてはわたしが蒔いた種なのだから。わたしがもっときちんと覚悟を決めていれば、こんなことにはならなかった。リエルは城にいて、きっとオルランド様を引き留めてくれて、そして、いつかみんなわたしを忘れて笑う日が来る……。そうでなければならなかったのに。逃げてはいけないと、あれほど自分に言い聞かせたはずなのに……」
 涙は止まらなかった。それでもファレリアは足を止めなかった。歩いて、歩いて、歩き続け、やがて涙が涸れ果てた頃、霧に覆われた恐ろしい山が彼女の目の前に姿を現した。
 山に足を踏み入れようとしたファレリアは、そこで懐かしい姿を見つけ、思わず声を上げた。
「ウルガ!」
 霧の中から現れたのは、見間違えようのないオルランドの愛馬だった。艶やかな栗毛と賢そうな黒い瞳。鞍も轡もつけられたままだ。
「オルランド様はここに来ているのね? そして、もう魔王を見つけたのね? お願いウルガ、わたしをオルランド様のところへ連れて行って!」
 ウルガは小さくいななき、ファレリアがその背に飛び乗ると、合図も待たずに道を駆け上り始めた。振り落とされないよう、ファレリアはしっかりとその手綱を握り、鬣にしがみついた。間に合う。まだ間に合うはずだ。だからウルガはファレリアを迎えに来た。ファレリアを待っていた。主の元に彼女を導くために。そうでなければならない。
「ああ……リエル……オルランド様……!」
 そうしてどのくらい駆けただろうか。耳を覆いたくなるような激しくおぞましい咆哮が山を揺るがし、霧を震わせる。深い谷で足を止めたウルガの背からファレリアが最初に見つけたのは、無造作に地面に転がった奇妙な塊だった。
「これは……なに」
 どくんと心臓が跳ね上がる。
「こんなにも、血が……」
 転がり落ちるように鞍を降りる。
「この、ドレスは……」
 かろうじて人間だったことがうかがえる赤黒いこの塊には、見覚えがない。けれど、ほんの少しだけ汚れずに残った、その白いドレスの裾の刺繍には見覚えがある。
 あの朝、リエルと服を取り替えた。ファレリアが脱ぎ、リエルが受け取ったドレス。贄のしるしの白い衣装。
「リエル……」
 血まみれの、壊れた細い指。
「リエル……リエル……ああ、リエル……!」
 ファレリアはその塊に駆け寄ると、血だらけになるのも構わずに胸にかき抱いた。指先に触れるもつれた髪の感触。ああ、ここが頭なのだ。そうしてここに腕の骨がある。リエルだ。これは変わり果てたリエルなのだ。
「リエル、リエル……ごめんなさい、リエル。ごめんなさい……」
 もう涸れ果てたと思っていたのに、ふたたび涙がとめどなく溢れ出す。泣いてもリエルは戻らない。ファレリアは永遠に許されない。わかっていても、涙は頬を汚す血と混じって薄赤く染まり、かつてリエルだったものの上にこぼれ落ちた。
 そのとき、またしても恐ろしい咆哮が大気を震わせた。ハッと顔を上げると、黒く巨大な魔王の影がのたうち、もがき苦しんでいた。その魔王の上に立ち、青く輝く剣を突き立てている人影。
「オルランド様!」
 ファレリアは声の限りに叫んだ。
「オルランド様、ファレリアはここにおります!」
 しかし、人影は振り返りもしなかった。ファレリアの声など聞こえなかったかのように、剣を引き抜き、振り上げ、そしてまた振り下ろす。まばゆく輝いた刀身から青白い稲妻が迸り、魔王の身体から黒い飛沫が吹き上がる。
 それはあまりに恐ろしい光景だった。何よりも、オルランドはすでに人の姿をしていない。身体を覆う黒い影。奇妙にねじれた腕と盛り上がった肩。底光りするふたつの眼。
「オオ……オオオオ……!」
 咆哮は魔王のものだけではない。異形と化しつつあるオルランドの口からも発せられているのだ。
「姫を返せ……我が姫を返せ……オオ、ウオオオオオ……!」
 オルランドが剣を振るうごとに、魔王はもがき、形を失い、反対にオルランドはより深く闇に蝕まれ、怪物となっていく。
「オルランド様……もうおやめください、オルランド様……!」
 声を涸らして叫んでも、オルランドには届かない。彼は怒りと憎しみに囚われ、最も求めているはずのファレリアの声さえ届かなくなってしまったのだ。
 決着はついた。魔王は倒れた。そして、そこにはもはや人でないものになり果てた醜い化け物だけが残された。


 姫への妄執の塊と化した騎士は、やがて姫を求めて山を彷徨い出た。だが、イルヴィーナの民の誰ひとりとして、それがかつてのエルドラの騎士であったことに気づかない。そのうちに人々は、魔の山に棲む強大な魔王が姿を消し、魔王よりは小さく地を揺るがす力までは持たないこの化け物だけが残っていることに気づいた。
「あれは魔王のなれの果てだ」
「騎士様は命と引き替えに魔王の力を削いでくださったのだ」
「奴を殺せ。魔の山に封じてしまえ!」
 国王の命令により軍勢が動いた。軍は騎士を討つことはできなかったが、魔の山に追いやって封じ、この勝利を尊い犠牲となったファレリア姫と騎士オルランドに捧げた。
 ファレリアはそのすべてを見ていた。そして、騎士が魔の山の奥深くで長い眠りにつくのを見届けると、黒い剣を胸に抱き、静かに古の森の奥へと姿を消した。



 そして長い時が流れ、またひとり、王家の姫が十六歳の誕生日を迎えようとしていた。
 魔王は目覚め、そして己がかつて倒したモノに劣らぬ力を手にしていることに気づく。
 今度こそ、姫を手に入れる。愛しい姫を、もう二度と失わずに済むように。
 国中の鐘が鳴り響き、そしてまた、ひとりの若き騎士が森の奥を訪れた。
 魔王に戦いを挑もうとする騎士に、ファレリアは言う。
「あなたは魔王を憎んではならない。怒りと憎しみに引きずられれば、この剣はあなたの魂をも喰らい尽くします。魔王への憎しみではなく、姫への想いだけを胸にこの剣を振るうことを誓うならば、わたしはあなたに力を授けましょう」
 騎士は誓い、ファレリアは黒い剣を授ける。
 旅立つ騎士を見送りながら、ファレリアは祈るようにそっと目を閉じた。
 荒れ果てた悲しい北の山に、嘆きに満ちた魔王の叫びが長く長く響き渡っていた。



END

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